一二月に入ると、各村は県の指示で地租改正の費用と負担のしかたについて相談して協議書をつくった。下柏崎村の例(史料編Ⅲ・七八頁)でみると、
◎総費用見積 七〇円
内訳
用掛・伍長・担当人日当(一人一日一二銭五厘)及旅費・宿泊費
機械・筆墨・薪炭・油・蠟燭費、一筆限帳・切絵図・村総絵図各二通分
(苦情処理の臨時費は苦情申し立て本人負担)
臨時雇い人給料、実地検査不備で再調査の経費
◎見積金額割当 二分は旧石高、地代価に、八分は筆数、反別に割当てる
もう一つ関俣村の例をみると、関俣村は費用総額を決めず次のようにしている(花岡 岡本右家文書)。
一 担当人・用掛日当一日一五銭、御用扱所出頭は日戻り一五銭・宿泊二五銭
一 諸器械・筆墨・薪炭・油・蠟燭等費用は村持とし、各地主に割当てる
一 取調には請負人をおかず、臨時雇人給料はそのたびに協議して定める
一 取調中、苦情処理の臨時費用は苦情申し立て本人の負担とする
一 諸雑費・日当・給料等の割当は反別三分、地代価三分、戸別四分の割合とする
このような協議書は壬申地券のときの経験を生かして、金額の差はあるが、どこの村でも作られており、改租費用負担の公平をめざしていた。
いくつかの村では測量や絵図面・帳簿つくりに人を雇ったり、請け負わせたりしていた。平田村では間縄引き(測量手伝い)二名を日当一〇銭・午前七時から午後六時まで就労の約束で雇っていたし、中阿久津村では阿久津弥一ら三名が、測量手伝い一名と杭打ち人足を村が出す条件で、一四〇余円で地券取調作業を請け負っていた。しかし、大多数の村では担当人が村民を人夫として雇い、自分たちでやっていた。
明治八年一二月初旬、地租改正事務を扱う県の出張所(回在所)が、壬生、鹿沼、宇都宮、祖母井、佐久山、烏山、茂呂(岩舟町)、天明(佐野市)、足利などに設置された。
高根沢町域が属した佐久山回在所には県から村上信夫、伏島新一郎、川島耕馬らが派遣されてきて、改正作業の準備が始まった。一二月一五日の村上信夫名の通達には、
今般地租改正の実地測量方法伝習のため巡回の御一行は、年内あまり日がなく、引揚前に各区の巡村指導が間に合わないので、一六日に喜連川駅へ村用掛・担当人の内一人づゝが出頭し、伝習を受けるよう取り計らえ(栗ヶ島 黒崎悦郎家文書)。
とあり、測量技術の伝習がかなり急いで行われたことがわかる。
改租事業の実際については一一月九日に「地租改正ニ付人民心得書」(『栃木県史』同前・一七五頁)で細かく指示が出された。それによると第一段階は田畑・宅地・平林の一筆ごとの実地測量(地押丈量)で、用掛、担当人、臨時雇いの村民たちが簡単な測量器具と縄伸びを防ぐための、竹製や漆で固めた麻の間縄を使って行った。測量の結果は「野帳」に記録され、「切絵図」が作られた。土地には一筆ごとに地番・地種・持主名を書いた「畝杭」がたてられた。そして、野帳を清書した「清野帳」、地種ごとの面積を記録した「歩詰帳」、切絵図をもとにした「一村総絵図」が作られた。更に、これらを使って一筆ごとの字名、地番、地種、面積、畦畔、持主を書いた「地引帳」と「地引全図」が作られ、「地引帳」の末尾には耕宅地・平林等の地種別に村面積の合計が記載された。
この作業の進行するなか、明治九年四月、地主を代表して仕事をする大区・小区の地主惣代の選挙が行われ、大区惣代には中柏崎の矢口長右衛門、一小区の惣代には上阿久津の若目田久庫、桜野の滝沢喜平治が選ばれた。
地主惣代の任務は「大小区惣代心得書」(『栃木県史』同前・一八二頁)によると、事務全般の下調べをし、「公平を主とし官民の間に立ち」両者の便宜をはかることや各小区・村間の公平・平等を実現すること、作成・提出する帳簿へ連署することなどだった。
特に「公平」「平等」ということが強調されていて、政府や県が新税制の基礎となる調査に地主=農民全体の支持を得るため、いかに心をくだいていたかがわかる。
地主惣代の日当・手当は、はじめ県費から出ていたが、各村で作業が進み、帳簿と実地を突き合わせる「実地検査」の段階に入った九年七月から、各村の巡回や県の改正係について行く時の旅費は、民費(村の経費)に課されることになった。巡回日当三〇銭、滞在日当二〇銭であった。地主惣代たちは各村の実地検査に精力的に取り組み、諸帳簿は一〇月までにはほぼできあがった。この帳簿類の「村控」は現在も大字引継文書や地主惣代だった家の文書の中に多く残されている。
図18 測量と面積の計算(西高谷区有文書・野取絵図帳から)
図19 測量結果を清書する清野帳ひな形(花岡 岡本右家蔵)
図20 測量の結果を一筆毎に記録したもの(等級は後に朱で記入) (花岡 岡本右家蔵)