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県の等級をきめる

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 明治一〇年(一八七七)一月、県は模範組合間の土地の等級を調整して、統一基準によって県下の土地等級を決める作業に取りかかった(これを地位等級比準という)。その方法は「各模範組合地位等級精調方」(『栃木県史』同前・一九二頁)に示された。それによると、大区地主惣代七名、小区地主惣代一〇名(実際は一四名)が大小区地主惣代のなかから、「地位等級比準鑑定委員」に互選され、この作業にあたることになっていた。
 第三大区からは矢口長右衛門、塩谷道博(現南那須町)、森与平(那須郡実取村、現大田原市)、杉山誠三郎(塩谷郡肘内村、現塩谷町)、田代為茂(那須郡黒羽田町、現黒羽町)が選出された。選ばれた比準鑑定委員二一名は一月一八日、栃木町の県庁へ集まって県官と作業の進め方について協議したが、それは次のようであった。
 
 (1) 各委員はまず自分の回在所管内の模範組合村の地位等級について再調査する
 (2) 次に全員で二、三か村を見て、等級をきめる基準について共通理解をはかる
 (3) その後、各委員は県の指定する回在所へ出張して、等級比準を行う
 
 委員たちが(1)、(2)の仕事を終えたのは二月二六日、その後、佐久山回在所には塩谷・那須郡担当の五月女貞一郎(下岡本・現河内町)、永山弥四郎(市塙・現市貝町)、石川力三郎(上石川・現鹿沼市)ら六名の比準鑑定委員がきた。
 委員たちは担当人・戸長らと田畑を実地に見ながら、各模範組合間の等級の調整を行っていった。第七四・第七五模範組合村でも四月上旬から中旬にかけて作業がすすめられた。
 各回在所から等級比準を終えた委員たちが、再び県庁へ集まったのは五月一日だった。そして、県庁で各回在所間(実際は郡の間)の等級比準の調整作業に入った。
 それは壬生回在所管内の一等地を基準にして、他の管内の一等地が何等地になるかについて、各委員が見込案を出し合うという方法で行われた。これは、直接地価・地租の決定につながっていくため、委員達は地元の利益を考えると同時に、全県的な「公平」を実現するという難しい立場に立たされて、会議では激しい議論がたたかわされた。しかし、会議では結論が出ず、結局もう一度各回在所の一等地を巡見したあと、ようやく五月四日になって、委員たちの納得できる結論に達した。これが表23である。
 この表ができると委員たちは自分の町村へ戻り、模範組合村の等級を県の等級に直す仕事に取りかかった。この時の模範組合村の協議では、村位や等級への不満や異議がでると、県官・区長・戸長・地主惣代・担当人が話し合い、お互いの納得のうえで乙号表(耕宅地平林等級合計表)を訂正するなど、農民の意思を尊重して作業がすすめられていた。
 この間、六月五日に県の地租改正係は各回在所宛に次のような内容の通知を出した。
 
   地位・等級をきめることは、実質は収穫量をきめることである。だから全管区内がたとえいく級になっても、末等地の収穫量の基準をきめておかないと、十分な議論もできないし、収穫量の概算もできない。だから末等地は田反収六斗、畑反収四斗五升として起算し、反収が米麦とも一斗五升増えるごとに一等級上げることにする。また田の末等は一四等、畑は一五等とする。
 
 県係官が心配していたのは、地主=農民たちの納得ずくの等級決定では、収穫量が低くなり、国の要求する地租を確保できないのではないかということだった。
 
表23 全管田畑一等地比較表
 壬生管
 佐野管
 鹿沼管
 宇都宮管
 祖母井管
 佐久山管
 壬生管
 佐野管
 鹿沼管
 宇都宮管
 祖母井管
 佐久山管

『真岡市史』第四巻近現代史料編・382頁より作成