明治一〇年八月三〇日、県令鍋島 幹は内務省の命令で、県の改正係仲田、佐藤ら四名と上京した。改租事務局が関東一府六県の反当平均収穫量を決めるため、各府県令を招集したのである。後に鍋島県令が各大区を回り、正副区長・地主惣代らにした説明によると、会議は次のような経過をたどった。
田畑平均収穫量見込額の提出を求められた県令らが、他府県の情報を探ったところ、栃木県の見込額(田九斗余・畑八斗弱)が最低であった。それで鍋島は仲田らと協議し、田米一石・畑麦九斗一升に増やして報告したところ、事務局は栃木県には田一石一斗一升二合、畑九斗一升余を見込んでいるので、これでは認められないと通知してきた。鍋島たちは上申書を提出して、県の主張を通そうとしたが取り上げられなかった。
九月一〇日、地租改正事務局総裁大久保利通、松方正義らと一府六県の長官が集まった席で、各府県の平均収穫量を書いた文書が配られ、府県間の公平を保つため、それを承認するよう求められた。栃木県の平均収穫量は前に示された額と変わらなかった。
これを見た鍋島は、その場でこれは認められないことを主張し、改正事務局と厳しく対立した。県令らは粘り強く運動して県の収穫量への理解を求めたが、結局認められず、一同辞表を出したという。その四・五日後、事務局からの呼び出しで出頭したところ、大隈重信・松方・松田道之らに次のように申し渡された。
各県上申のことも考慮して、別紙のごとく減額したり。これにてお請けにならざれば決して再評議はいたさず、軍隊を差し向けても申しつける
配られた別紙(「関東府県穫量表」『栃木県史』同前・二五八頁))には、栃木の田は米一石六升八合、畑は麦九斗八升と田は減額されていた。栃木、埼玉の外はこれを承諾するようなので、田の米は見込みを大きく越えているが一応帰県して人民へ説諭のうえ返事をしようと答え、一〇月下旬に帰ってきたという。
帰県後、この収穫量で税額を計算したところ増税一三万円余、明治九年の税金の残額二二万円とあわせると三五万円になるので、県は政府と交渉し、明治一〇年はすえ置き、一一年より六か年賦で納めるようにしたという。
結局、県はいろいろ弁解はしているが、財政上必要な税額を「軍隊を差し向けても申つける」という政府の強硬な態度に屈伏したのであった。