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収穫量の村への配分

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 明治一〇年一一月二三日、那須・塩谷両郡の大小区地主惣代、区長を大田原へ招集した県令鍋島は仲田・佐藤・伏島らの係官を従えてきて、前に述べた関東の府県長官会議のようすを説明して理解を求めた。
 県の平均収穫量がふやされたので、各郡の平均収穫量は県によって訂正されていた。そして県は「大観上(全体の状況を考えて)平均収穫量をきめるのは施政上の活法」だと主張してその承認を強制した。ここで指示された塩谷郡の平均収穫量は田九斗九合、畑七斗五升三合であった。それでこれをもとに佐久山回在所管内の二五の模範組合の平均収穫量を手直し、さらに各村々の平均収穫量も改めることになった。
 そのための会議は鈴木良一ら小区区長副、大区地主惣代の矢口長右衛門、塩谷道博、小区地主惣代阿久津譲(大谷)、鈴木豊八郎(上柏崎)ら計三三名に県係官伏島ら六名が参加して一一月二八日佐久山で開かれた。
 この会議にあたって出された「田畑収穫額を模範組合へ配賦の方法」(史料編Ⅲ・八一頁)には一〇か条にわたり詳細な説明があるが、官主導の傾向が強いものであった。そして会議が終ったときの「上申書」には、係官の指導の適切さに感謝する言葉が目立っている。また、区長・地主惣代らの審議については、土地の肥沃度を基礎とし運輸、水害・干害、米麦の価格等を考慮しながら、本音を出して討論し、配分の公平・適正を実現しようと努力したことを述べている(『栃木県史』同前・二五九頁)。
 しかし、このとき作った反当収穫量表によって各村への配分案を相談しているとき一部から不公平な所があると指摘され、明治一一年三月二三日に再び代表が招集されて、さらに反当収穫量表が訂正された。その結果は次のようであった。
 
  七四番模範組合 水田 七斗六升一合七勺 陸田 七斗四升七勺
  七五番模範組合 水田 九斗七升一合四勺 陸田 八斗五升一合四勺
 
 さらにこれを各村に配分する会議が四月一日から各模範組合ごとに開かれた。会議には正副戸長、各村二名以上、三名以下の地主互選の議員が参加した。会議の運営については
 
 (1) 日程は七日以内、遅くとも一五日を過ぎることなく村配分案を作ること
 (2) 寺院や広い家を宿とし、旅籠を使うときは費用の節減を工夫すること
 (3) 費用を省くため参加者は会場の村に詰め切り「衆員奮励速成」すること
 
などが決められている。
 この会議でどのような討議がされたかは不明だが、七四番模範組合では討議が難航した模様で、予定した日程は大幅に延期されて終わったのは四月二三日であった。
 七五番模範組合も同様であったろうが、ここで決められた町域各村の平均反収を示したのが表24である。田畑ともに旧阿久津村の宝積寺、中阿久津、大谷、石末が高く、旧北高根沢村では花岡、上高根沢、栗ヶ島が比較的高いが、亀梨、柏崎は低く、旧熟田村の飯室、伏久、文挾はかなり低い反収であった。この平均反収をもとに田畑の等級ごとの反収がきめられ、一村の収穫量が算出された。
 
表24 町域各村水陸田反当匡正表
村 名水  田陸  田
宝 積 寺 1石 2斗 2升 0合  7斗 8升 5合 
中阿久津9. 9.   8. 8.   
大  谷9. 9.   9. 1.   
石  末8. 2.   7. 9. 4. 
花  岡8. 8. 1  8. 6. 2. 
上高根沢8. 4.   7. 8. 6. 
栗 ヶ 島8. 1.   7. 7.   
寺 渡 戸7. 8. 2  7. 8.   
太  田7. 8. 3  7. 6. 5. 
桑  窪7. 8. 5  7. 9.   
平  田7. 8. 5  7. 8.   
上 柏 崎7. 1.   6. 7. 5. 
中 柏 崎7. 3.   6. 8.   
下 柏 崎7. 0.   6. 6.   
亀  梨6. 3.   6. 7.   
飯  室6. 3.   6. 4. 5. 
文  挾6. 6.   6. 7.   
伏  久6. 5.   6. 5.   

史料編Ⅲ・85頁より作成