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地価の算定

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 次はそれに基づいて田畑一筆ごとの地価と地租を算出するのであるが、その方法は本県では明治一一年二月二日に出された「地租取調ノ手順算当略法」中の計算略法によって行われた。それによると、県内を四地域に分けて米麦の相場(明治三~七年平均)を決め、生産の必要経費は生産額の一割五分の種肥代のみとし、利子率を六分として地価を算出した。塩谷・那須二郡は米一石三円七三銭、麦一石一円四八銭として地価を計算したが、今、田の反収を一石とすると次のようになる。
 
  粗収入  三円七三銭
    内    五五銭九厘五毛 種肥代
  残金   三円一七銭〇厘五毛
    内    九五銭一厘一毛五 地租一〇〇分ノ三
         三一銭七厘〇毛五 村入費(地租の三分ノ一)
  残金   一円九〇銭二厘三毛  作徳金(これを利子と考えて元金を計算してだし、それを地価とする)
 地価 三一円七〇銭五厘
 
 同じようにして畑一反歩は地価一二円五八銭、地租三七銭七厘四毛となった。
 これによる明治九年の地租・村入費の合計は田では粗収入の三四パーセント、減租になった一〇年で二八・三パーセントになる。
 ところで、この計算法の問題は二つあった。一つは生産必要経費を種肥代一五パーセントしか認めなかったので、農民の労働賃金部分が経費として正当に評価されなかったこと。
 第二は作徳金を利子として資本還元するとき、実際には当時の農村で借金すれば一五パーセントが普通であった利子率を現実離れした六パーセントという低い利子率で計算させ、地価と地租を高く設定したことである。
 このようにして得られた町域の村全体の耕地面積、地価・地租の集計記録は史料不足でできないが、模範組合ごとの田畑面積の増減、地租の増加については表25、26のようである。これでみると塩谷郡は畑の減少、田の増加がそれぞれ二、〇〇〇町歩以上あるが、七四番、七五番模範組合が田の増加の五二パーセント、畑の減少の四一パーセントを占めている。
 また郡の地租では旧税に比べ畑地租の増加が著しいが、七四・七五模範組合では田畑ともに増税となっていることが注目される。田では郡の増税分の九八パーセント、畑では五四パーセントが両模範組合である。
 田畑一筆ごとの地価を決める、苦渋に満ちた会議を終えた議員たちが帰村すると、二四日にはこの会議の総費用すなわち、担当人四二名分、日当一八〇円四〇銭、炭一七俵、半紙六〇帖など諸費六円一銭、計一八六円四一銭が組合一八か村に割り当てられた。その方法は村割五分、反別割五分で上高根沢村は二二円五四銭二厘七毛、花岡村は一五円一四銭八厘三毛、飯室村八円六三銭九厘七毛などであった(史料編Ⅲ・八五頁)。
 明治一一年九月には耕宅地・平林の地租改正作業は終わり、一二月には各村担当人から「新地券下渡願」が出された。翌一二年八月には新地券交付の通知が村々にあり、九月中には壬申地券と新地券の交換が終了した。
 
表25 耕地反別増減調
  塩谷郡  田 増 2,084町7反歩 畑 減 2,265町8反歩
  74 番   田 増  617町3反歩
  75 番   〃 〃  391町9反歩
 畑 減  378町7反歩
 〃 〃  543町6反歩

矢板市 和田方正家文書
 
表26 新旧税差引増減
塩谷郡
  田 増3606円余  畑  増5181円30銭
     減4396円余     減 82円
  差引減 798円余  差引増4099円30銭
  郡計3301円30銭増
74番
75番
  田 増1862円余  畑 増1333円余  計3195円余
  〃 〃1687円余  〃 〃1485円余    3172円余

矢板市 和田琢磨家文書
 

図22 畑地の地券(淡い青色の紙で地価、地租がしるされている) (伏久 塚原征文家蔵)