粗収入 三円七三銭
内 五五銭九厘五毛 種肥代
残金 三円一七銭〇厘五毛
内 九五銭一厘一毛五 地租一〇〇分ノ三
三一銭七厘〇毛五 村入費(地租の三分ノ一)
残金 一円九〇銭二厘三毛 作徳金(これを利子と考えて元金を計算してだし、それを地価とする)
地価 三一円七〇銭五厘
同じようにして畑一反歩は地価一二円五八銭、地租三七銭七厘四毛となった。
これによる明治九年の地租・村入費の合計は田では粗収入の三四パーセント、減租になった一〇年で二八・三パーセントになる。
ところで、この計算法の問題は二つあった。一つは生産必要経費を種肥代一五パーセントしか認めなかったので、農民の労働賃金部分が経費として正当に評価されなかったこと。
第二は作徳金を利子として資本還元するとき、実際には当時の農村で借金すれば一五パーセントが普通であった利子率を現実離れした六パーセントという低い利子率で計算させ、地価と地租を高く設定したことである。
このようにして得られた町域の村全体の耕地面積、地価・地租の集計記録は史料不足でできないが、模範組合ごとの田畑面積の増減、地租の増加については表25、26のようである。これでみると塩谷郡は畑の減少、田の増加がそれぞれ二、〇〇〇町歩以上あるが、七四番、七五番模範組合が田の増加の五二パーセント、畑の減少の四一パーセントを占めている。
また郡の地租では旧税に比べ畑地租の増加が著しいが、七四・七五模範組合では田畑ともに増税となっていることが注目される。田では郡の増税分の九八パーセント、畑では五四パーセントが両模範組合である。
田畑一筆ごとの地価を決める、苦渋に満ちた会議を終えた議員たちが帰村すると、二四日にはこの会議の総費用すなわち、担当人四二名分、日当一八〇円四〇銭、炭一七俵、半紙六〇帖など諸費六円一銭、計一八六円四一銭が組合一八か村に割り当てられた。その方法は村割五分、反別割五分で上高根沢村は二二円五四銭二厘七毛、花岡村は一五円一四銭八厘三毛、飯室村八円六三銭九厘七毛などであった(史料編Ⅲ・八五頁)。
明治一一年九月には耕宅地・平林の地租改正作業は終わり、一二月には各村担当人から「新地券下渡願」が出された。翌一二年八月には新地券交付の通知が村々にあり、九月中には壬申地券と新地券の交換が終了した。
表25 耕地反別増減調
塩谷郡 田 増 2,084町7反歩 | 畑 減 2,265町8反歩 | |
74 番 田 増 617町3反歩 75 番 〃 〃 391町9反歩 | 畑 減 378町7反歩 〃 〃 543町6反歩 |
矢板市 和田方正家文書
表26 新旧税差引増減
塩谷郡 | 田 増3606円余 畑 増5181円30銭 減4396円余 減 82円 差引減 798円余 差引増4099円30銭 郡計3301円30銭増 | |
74番 75番 | 田 増1862円余 畑 増1333円余 計3195円余 〃 〃1687円余 〃 〃1485円余 3172円余 |
矢板市 和田琢磨家文書
図22 畑地の地券(淡い青色の紙で地価、地租がしるされている) (伏久 塚原征文家蔵)