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林野の官民有区分

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 山林原野の地租改正は、本県では明治一二年二月の「山林原野地租改正に付き人民心得書」「山林原野丈量順序」の布達によって始まり、一三年五月に終わった。林野からは多くの地租収入を見込めなかったので主眼は林野所有権を確定することだった。しかし、複雑な所有権を整理し、これまで無税の林野の地価を決めて課税することで、林野に資産価値が生じて林野所有の経済的価値が高くなった。そのため政府は広い、良質な官有林野の所有が新しい国家の財政的基盤となり、財政の安全弁的役割を果たすことができると考えていた。
 ところで、幕藩体制下の林野所有は複雑なうえに農業や村人の生活と深く結びついた入会林野が多かったから、所有権をはっきりきめることは難しかった。この所有権をきめる作業を「林野の官民有区分」と呼んでいるが、林野の地租改正とセットとなる重要な施策であった。当時の林野所有の状態を分類してみると、およそ次のようである。
 
   (ア)幕・藩有林野(御林山、御留山など村民立入り禁止の林野とある程度村民利用を認める林野と二種類あった)
   (イ)村持林野・数村又は数人入会林野(採草・放牧の秣場・草山と薪・用材採取の柴山・薪山などで、壬申地券当時「公有地」となった所が多い)
   (ウ)個人持林野(百姓持山・持林、拝領山、預り山や屋敷林、地付林など)
   (エ)社寺持林野
 
 この整理はいろいろ曲折はあったが、明治七年一一月「地所名称区別改正」で(ア)を官有地、(イ)を「人民数人・一村・数村所有の確証」があれば民有地二種、(ウ)を「人民各自所有の確証」があれば民有地一種に分けた。(エ)は前出。
 これで壬申地券の時の公有地は廃止となった。明治六年末には本県にも公有秣場が約三万五千町歩、公有山林が約六、〇〇〇町歩(反別不詳五六九か所を除く)があったが(『石橋町史』通史編・六九七頁)、公有地については同時に出された太政官達によって府県で官民有区別を行うことになった。この区別の基準となったのは「所有の確証」があるかどうかで「文書」での証明が求められた。
 「確証」としては検地帳等の官簿に書いてあること、樹木の植付・培養・伐採・売却の証拠文書か代金を払って買い入れた証拠文書があることなどのうち一つが必要で、しかも、その立証責任は民間にあるとされた。そのため旧公有地を民有地二種に編入することは難しかった。この達に対応するように明治八年九月に県は第一回の公有地調査を実施している。この後、政府は一時、入会慣行があったことを隣村か保証すれば、民有を認めるという入会権を保護する立場をとるが、すぐ変更してしまい公有地の民有地編入の条件は厳しくなっていった。
 次いで地租改正の時に各県から出された「伺い」の検討を経て、明治九年一月に地租改正事務局議定の「山林原野等官民所有区分方法」(略称)が統一方針としてだされた。
 これは六か条からなり、官民有区分の基本原則となったが、大要は次のようであった。
 
   (一)旧藩時代から村持と定められており(検地帳、年貢割付状などに記戴)、草木を自由に採取してきた慣行を、近隣の村々も保証する林野は民有地とする
   (二)樹木の植付け・焼払いなどの手入れをして、村所有地として利用管理してきたものは証拠帳簿や租税納入の有無にかかわらず民有とする
   (三)これまで租税を納めていたり、山争いの裁許状に村持とあったり、薪・秣を取って商売していても、天然の草木を利用するだけで栽培の労費を投入していない林野は官有地とする
   (四)これ以外のものはすべて地租改正事務局へ伺いでてきめること
 
 本県の同年一一月の第二回公有地調査もこの方針にそって行われているが、村持山や入会山は天然の草木採取が中心で、植樹・育林のような積極的な経営はほとんどなかったので、村持の証明は検地帳への記載が頼りだった。しかし、検地帳には田畑反別の外書として秣場・萱場などと書かれ、反別・場所がはっきりしない場合が多かった。それで、入会地の区域をはっきりさせて、民有を主張することは困難だった。そのため、入会林野の官有地への編入が本県ばかりでなく、全国的に起きていた。