(一)立木の保護・育成により林野の財産価値を高めるとともに艦船建造・建造物・交通施設への木材供給と民間必用材の払下げを行うこと
(二)水源林涵養と土砂流出防止により国土を保全すること
などを目的としていた。政府は殖産興業や士族授産との関係で、一時は官林の売払い処分を盛んに行ったが、国が産業発展の担い手としての立場を強めてくると、しだいに官林経営による資本の創出と産業の育成という明治期林政の特色が強く現れてきた。
そして、まえに述べたような厳しい「官民有区分」を実施して、官有林野をふやしてきた。そのため、村々の生産と生活を支えていた入会地の大部分は官有地に編入されてしまっていた。
本県の林野の官民有区分は、一一年半ばから一二年半ばごろまでには終わったが、前に述べた原則がかなり厳格に適用されて、入会地の大部分は官有地になった。塩谷郡では旧公有地五万六七九八町二反歩のうち民有になったのはわずか二八二町二反余歩、〇・五パーセントに過ぎなかった。これらは「官簿に名請の記載があるか、樹木の苗栽培や焼切り等の保証が隣村からえられた場所」だけだった(『栃木県史』史料編近現代五・六五頁)。
町域の村々のなかで共有の林野を持っていたのは、栗ヶ島の山林二町一四歩、原野九町八反一一歩、計一一町八反二五歩と伏久の一反四畝歩、平田の反別は不詳だが加藤幹実外一五名が共有の「草生地」であった。その他にはどの村にも共通に、三~五反歩程度の獣畜埋場が雑種地として共有されていたくらいだった。
町域でみると、上高根沢村は明治六年の「地所名称区別」の時、上の原、台の原、金井原などの入会秣場一七一町余歩を官有地とされており、平田村は字葭山・道城地の入会秣場九町二反余歩を官有地とされるなど、多くの村が入会地を失っていた。
図23 伏久の共有林山地券(伏久 塚原征文家蔵)