地租改正は明治維新後の社会を資本主義化していくうえで、重要な役割を果たした改革だった。第一はこれまでの幕府や藩の土地領有制度が廃止され、「人民」(その中心は農民)の土地私有権が認められたことである。もちろん、領主達はただで領有権を手放したわけではなく巨額の金禄公債という補償を受けとっていた。そして金禄公債は農民の納める地租で支払われていた。
土地所有権を得た農民たちはしだいに権利意識に目覚めていった。それは農民のなかのエリートである鑑定委員や地主惣代たちが、自分たちの調査に基づく耕宅地の地位等級を主張し、地租改正事務局や県の圧力に抵抗した姿勢によくあらわれていた。
このような権利意識は明治七年の「民撰議院設立建白書」や同一三年の「国会開設請願書」にいう租税をおさめる者は租税の使い道、つまり政治のあり方について協議する権利があるという参政権の主張となってあらわれた。さらに、自由民権運動の全過程を貫く共通の要求の一つが地租軽減であったことを考えると、地租改正が明治前期の社会の近代化と民主化に果たした役割はまことに大きかったといえよう。
第二はこれまでの複雑な租税が、地価を基準とする定率の金納地租に統一され近代的な租税制度の基礎がつくられたことである。そして国家財政は毎年一定の歳入が確保されることになって一応安定し、以後の富国強兵政策の実施が可能になった。また、地価は収穫高を基準にきめられたから、同じ程度の生産力の土地は同じ程度の地価となったので、土地は経済的な合理性を持って売買されたり、商取引の担保物件として活発に使われるようになった。そして土地を担保とする不動産金融を生みだしていき、のちに日本勧業銀行や農工銀行の設立をみた。他方では土地が商品化して売買も盛んに行われ、土地所有者は資本主義経済の荒波のなかへ否応なく投げ込まれていくことになった。
特に金納地租は米穀市場が未発達な地方ではたいへんな問題だった。秋の収穫期には米価は下がるが、端境期には上がる。しかし、この価格の動きや需給状況を見ながら米の販売ができるのは、大量の米をもっている地主か豪農といわれる農民で、大部分の中小農民は肥料代や生活費や地租のため、価格の安い収穫期に売らなければならなかった。
金納地租で利益を得られたのは、地主や豪農以上に米穀商人だった。彼らは大量に商品化される米を安いときに買い入れ、価格の動きを見ながら販売して大きな利益を得た。地主で米穀商や肥料商を営む者も多かったから、彼らは米や肥料の販売で得た利益でさらに土地を買い集めて大地主へと成長していった。
第三は林野改租と官民有区分により多くの村が入会地を失ったことである。農民は薪炭用の雑木や飼料・肥料用の秣・生草・落葉を手にいれるためには、地主の山や林野から買うか官有地を借りて料金を払わねばならなくなった。また、入会地を取り戻すために多くの費用とエネルギーを注いで、官有地の払下げ運動をしなければならなかった。
第四は地租改正が巨額の経費をついやしたことである。その総額は国費約八〇〇万円、民費約二、九一〇万円の計三、七一〇万円といわれている。民費は農民が税金を納めたほかに郡村の費用として負担する金である。これは区・村の経費、学校の設立・運営の経費と重なって農民にはきびしい負担となっていた。その上、押しつけられた新地租が重税となることを知った農民の間には、地租改正に対する不満が高まっていた。
明治九年には隣県茨城の真壁・那珂・久慈・茨城の各郡の一揆、三重県下飯野郡の一揆をはじめ、長野・鳥取・富山・静岡・大阪などで地租改正をめぐる農民騒擾が続発して、政府は地租を三パーセントから二・五パーセントへ引き下げた。これは「竹槍でどんと突き出す二分五厘」とはやされたが、農民が重い経費負担と押しつけられた重税に耐えかねた反抗の結果であったといえよう。