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勧農政策と老農

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 地租改正や四民平等に代表される社会制度の大きな変革がすすんでいくなかで、農業や農村はどのような変化をしていたのだろうか、維新政府の農業政策も含めて当時のようすを見てみよう。
 政府は殖産興業のスローガンの下に、産業の近代化をすすめていたが、その重要な柱の一つは勧農政策だった。初期の勧農政策は士族授産のための開墾や輸出の盛んな養蚕、茶の栽培、新しい分野である牧畜などの奨励に重点をおいていた。ところが、明治六年(一八七三)に岩倉遣欧米使節団が帰国すると方針が変わって、欧米の農業技術の導入が中心になってきた。東京には内藤新宿の試験場、三田に育種場と農具製作所がつくられて外国人技術者や農学者が雇われた。そして、駒場と北海道の札幌には農学校がつくられたが、これらが力を発揮するには時間が必要だった。それで、実際の勧農事業はこれまでの日本の農業技術を支えてきた地方の老農・豪農とよばれる篤農家によって担われていた。
 栃木県では明治九年から老農を起用する勧業奨励策がはじまり、一二年(一八七九)には二一名の勧業委員が任命されて各郡に配置された。塩谷郡は上柏崎村の矢口長右衛門、矢板村の矢板武、藤原村の星次郎内の三名だったが、そのほかには那須郡の印南丈作、河内郡の老農として知られた関根矢作、田村仁左衛門などの人々がいた。
 勧業委員の仕事は勧農、勧工、勧商の全般にわたるが、特に勧農では開墾・牧畜奨励、諸果樹・苗・種物の栽培試験を実施することと、農業の実態を精確に知るための各種農産物統計の作成であった。各村では物産調書や農事統計がつくられ、篤農家のなかには農事記録をつくり、農事改善に取り組む者もふえてきた。
 明治一二年七月一五日の「本年水田景状」という矢口長右衛門の報告を見ると、一二年は俗に「稲なくせ」という稲病が発生して、町域の村々で被害にあわなかった所はないという。被害田には小虫が大量発生して稲を食い荒していた。「稲病の原因を研究して蔓延を防がなければならないが、とりあえず稲病のことを『広告』しておく」と述べて農民たちの注意を促しており、勧業委員の仕事の一端を知らせてくれる。