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天皇巡幸

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 慶応四年、鳥羽伏見の戦が開始されて間もない一月二三日、大久保利通は「大阪遷都建白書」を岩倉具視を経て提出し廟議にかけた。そこには「因循ノ腐臭ヲ一新シ、官武一途ノ別ヲ放棄シ、国内同心合体」が今日の急務であると記されている。さらに「即今外国ニ於イテモ帝王従者一、二ヲ率シテ国中ヲ歩キ、万民ヲ撫育スルハ実ニ君道ヲ行フモノト謂フベシ」と、外国皇帝をモデルにし民衆との接触をうたっている。明治期以降、天皇と民衆の関係は、天皇が従来のしがらみから脱することに意味があり、天皇崇拝が民衆のなかにどのように定着するかが一つのポイントになることはいうをまたない。こうして東京に遷都した天皇は民衆との接触をはかるため、新しい国家建設のため天皇と民衆の一体化のため全国巡幸が計画された。
 全国巡幸は明治国家体制の確立期、明治五年(一八七二)から明治一八年(一八八五)の間に実施した六大巡幸に象徴的に現れている。明治天皇の最初の行幸は明治五年の近畿、中国、四国巡幸である。「全国要地巡幸の建議」によれば、今日「方今、大政一新し治教沐明なり、宜しく全国を巡幸して地理、形勢、人民、風土を視察し、万世不抜の制を建てらるべき」(『明治天皇記』二巻・六七四頁)と、巡幸の意義を述べている。第一回の巡幸に中国地方、長崎、熊本、鹿児島が選ばれたことは、天皇制台頭の主役を演じた薩長への巡礼であり、特に反政府的な島津久光の懐柔策が目的でもあった。
 西国巡幸は自らの身内の巡幸であった。これに対し大久保利通、三条実美らは奥羽の民の怨みを察し、最後まで政府に反抗した奥州民衆を懐柔するため、明治八年次期巡幸に奥羽、北海道を奏請した。奥州地方の巡幸は「頑愚ノ旧夢ヲ嗅覚シ、開明ノ曙光ヲ認見セシムル」のが目的であった。東北巡幸の布達がだされたのは明治九年(一八七六)四月二四日の太政官布達で、五月六日には太政大臣三条実美は巡幸について具体的に布告を発表した。
 天皇一行は明治九年六月二日皇居を出発、六月四日には栃木県に入り、午後四時に小山宿の脇本陣若林庄十方に到着した。次いで宇都宮に到着、その後四日間の日光見物後、宇都宮を出発し陸羽道に入ったのは一一日である。上阿久津村に到着したのは六月一一日で白沢からは馬車をやめ腰輿(腰の高さに持ち上げて運ぶ輿)にのって、鬼怒川を渡り若目田久庫宅で小休憩をとられた。この時の様子は次のようであった。
 
  邸宅正面にはガス灯が点ぜられ、村内個々の家はしめ縄を張り、日の丸をたて履き清められたという。礼服を着用して若目田久庫、同新七郎、同次郎平らは陛下の一行を迎え入れた。また興を添えるために前の小川に鱒を放流して天覧に供したという。天皇一行はさらに氏家宿から喜連川へと歩を進めていった。
 
 第二回目の東北巡幸は明治一四年(一八八一)に行われた。この時の太政大臣三条実美は「来ル七月山形県、秋田県及ビ北海道ヘノ御巡幸仰セイデサル此旨布告候事」と奥州・北海道への巡幸を発表した。
 北海道、秋田、山形県巡幸は左大臣熾仁親王、参議大隈重信、北海道開拓長官黒田清隆らが参加して七月三〇日総勢三五〇人で出発した。宇都宮には八月二日に入り、陸軍演習天覧のため二日間滞在、五日に出発して白沢から上阿久津を通過して陸羽道を北上した。
 御通行に際し前々日に道路見分が内務省の馭者によって行われている。郡長は馭者が出張する前に、沿道の坂道の上り下り、緩急などを細かく調査し、その状況を木札に書いておくよう戸長に指示している。道路の険易、広狭などは各馭者より行在所に通知され、さらに峻坂、険路、泥道など馬車ひき人夫を要する時は各馭者より人夫の用意などが指示され、戸長より県令に連絡し、準備万端整えて不敬にならないようにしている。巡幸には簡素化がうたわれ、民衆への配慮がみられる一方、現実は地方官が自らの立場を良くしようと考え、上意下達の準備体制が施行された。巡幸に先だっての簡素化の聖旨も現実には厳しい奉迎準備となった。