明治九年の東北巡幸の内容は五月六日具体的に発表された。ここに巡幸路沿いの県、村では各方面にわたって対応にあたった。県令鍋島 幹は巡幸を迎えるにあたり県民にいくつかの注意を与えている。まず行列の拝見や通行については禁止せず、庶民は普段通りの営業を続けてよいとし、一般生活については特別の注意はなかった。注意すべきことは巡幸の際は婦女子、一般農民が敬礼をすることで、もちろん、派出官員からの達しにも不都合のないように注意することである。
巡幸という国家的行事が実施されるので、沿道の農民はかなりの負担を強いられた。栃木県は二回の巡幸で往復通行する関係で道路修理、橋梁修理と予想以上の負担が加わった。五月六日以降、通行にかかわる地方では戸長、副戸長ばかりか伍長までも集められ具体的作業が県令から指示された。桑窪村岩村五一郎、亀梨村鈴木七郎平、下柏崎村鈴木佐重は五月一八日に区務所に出頭するよう連絡をうけている。六月には「御巡幸に付き種々御達の条件があり、其他御用談があるため、五日午前一〇時迄に戸長、副戸長のうち一名は伍長一名を連れ種痘調をもって出頭するように」(史料編Ⅲ・二七頁)と至急連絡があり、準備はしだいに末端にまで及んできた。
準備作業は、この地域では特に道路修繕が主なものであった。道路修繕については県令は普段から関心をもち、道路清掃にまで「掃除ノ儀ハ兎角等閑ノ路、草ガ生立チ、当今甚ダ不潔ノ向之レアリヤニ相聞、右ハ通行不便ノミナラズ、夫レガ為凹凸ヲ生シ道路の障碍トモ相成候条、追々収穫ノ季節ニモ立チ至リ候間、其前ニ屹度掃除行届候様」(史料編はさむ編Ⅲ・二六頁)と、三か月ごとに掃除をするように達しまで出している。天皇巡幸に当たっては特に道路修繕には念を入れた。
奥州道松山地内三八〇間について「三寸の土を盛って道を平にし、その上に砂一寸をもって修繕する」ことを上柏崎の古口庄平が請負人になって、六月五日までに行なうことを、区内の中柏崎、桑窪、亀梨、上柏崎の正副戸長に連絡している。
農民たちは道路改修を当然の義務としながらも不満の声もあがった。「目下農家は挿秧(田植え)ようやく終り、田草取りに忙しき折りにかかわらず、毎日道普請、道普請と夫役に呼上げらるるはすこぶる農の時に違うにあらざるや」(「栃木新聞」明治一四年七月一五日)と、農繁期にはとくにその思いを深くしたに違いない。また道路掃除のため「沿道の宿村は勿論、二三里以外も距りたる人民にまで」呼び出していることに対し、「此事甚だ迷惑なり」として、道路掃除不服の願書を郡役所に提出している村もある。
文挾村では陸羽道のうち区内の上阿久津より松山村境までの道路、橋梁修繕を割り当てられた。その費用を区費で出すことにして一戸六銭ずつ集めておいたが、県庁から一部の費用か支払われたので、その金を各家に分けることにしたが、前に集めた金を計算しなかったので、村民から苦情や不満が出て受け取らなかった。その後何回も説諭されてようやく受け取ることにしたが、一人だけは怒って最後まで受け取らなかった。このように農民たちは心から協力していたのではなく、厳しい生活のなかで深い怒りを秘めて巡幸を見守っていたのかも知れない。