明治六年に栃木県が成立し、地方行政が新たな大小区制によって行われて七か年が経過した。大小区制は徳川三〇〇年の旧藩を背景にした地域の独自性を否定する過程で生まれた地方制度であった。そのための地方の風俗習慣を無視した地方行政を生み出す要因ともなって、住民の抵抗を招くことも多かった。
そこで政府は住民を政府の地方支配体制のなかに取り込み、地方政治への参加を勧めるため、伝統的な町村を復活させて支配の末端組織にしようとした。
このような背景の下に発布された「三新法」とは明治一一年(一八七八)に公布された郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三法律の総称である。その理由書には「地方ノ区画ノ如キハ如何ナル美法良制モ固有ノ習慣ニ依ラズシテ新規ノ事ヲ起ストキハ其形美ナルモ其実益ナシ、寧ロ多少完全ナラザルモ固有ノ慣習ニ依ルニ若カズ」『地方体制三大新法理由書』と、不完全な区画でも「固有の慣習による区画」を採用したのである。
郡区町村編成法は全六か条の簡単なもので第二条に「郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル」とある。従来小区のなかに埋没し、法的に認められなかった町村は再び復活し、郡には郡長が、町村には戸長が置かれ、郡長は官選であったが、戸長は村民の公選によるものであった。政府の町村及び戸長をみる眼は「町村ハ視テ以テ自然ノ一部落トシ、戸長ハ民ニ属シテ官ニ属セズ、該町村ノ総代人」であるととらえている。政府は住民生活を尊重し、町村を自治体として認める姿勢を示した。
郡は人情、風俗が共通な地域で形成され、将来財政的基盤が弱くなる恐れのある郡には合併措置がとられた。郡役所設置の布達が出されたのは明治一一年一一月八日で栃木県には八郡役所が置かれた。本町域は塩谷郡役所の所管となり、郡役所は矢板村に置かれ、初代郡長は坂部教宣であった。彼は県学務課に勤務し、二等属大家森重(佐賀藩)の愛顧をうけ、長女と結婚その縁で塩谷郡長を奉職した。充分な力量を発揮できず、桧山六三郎を書記にすることで郡長の地位を保つことが出来たといわれる。また、性格的には狡猾で、自己中心で不利なときは一顧だにせず、郡長になってからは旧六等属古川良輔の庇護のもとで今日の地位にあるといわれ、郡長にはあらざる人物との評を得ている。(『栃木県史』史料編近現代一・二六三頁)。