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民選戸長

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 郡区町村編成法の第六条に「毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク、又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」とあり、郡下の行政区に町村が置かれ、その町村ごとに行政担当者として戸長がおかれることになった。
 大小区制の時代は地域住民と余り関係のない人が戸長に任命された場合もあり、このため住民の反発を招くことがあった。明治六年の宇都宮県の場合、中阿久津、上阿久津村が入っていた第五大区二小区には戸長に大田原の士族藤田吉亨が任命されていた。
 戸長選出について、内務省達には「地方適宜ニ定ムベキコト」とあり、各府県とも統一されていなかった。しかし住民と戸長の関係をみると、生活の場で日常的に接触する人を選ぶ方法をとり、国家行政事務の末端執行者である戸長と親近感をもたせ、ひいては国家への自発的服従をよびおこすねらいだったのである(大島美津子著『明治のむら』)。
 栃木県では明治一二年(一八七九)五月一〇日、乙第一一九号の布達で「今般各町村ニ公選ヲ以テ戸長一名ヲ置キ」と、戸長の公選を定めている(『栃木県史』史料編近現代一・二七三頁)。戸長選挙規則によれば、戸長は上に対しては行政の公務に従事し、下に対しては町村事務の理事者であるから、選ばれた人によって「町村の盛衰利害に大きく影響する」とし、選挙人は努めて公平無私の心をもって選挙するように記している。選挙権をもつ者はその町村に在住する満二〇歳以上の男子で、その町村に不動産をもつ者に限られていた。選挙は学校、寺院などの投票場で無記名で行われた。
 亀梨村戸長鈴木七良平は戸長に任ぜられて次のような誓いの言葉を述べている。
 今般、私儀塩谷郡飯室村、文挾村、上柏崎村、亀梨村ノ選挙ヲ以テ該村戸長ヲ県令ヨリ命ゼラレ、当明治一二年七月ヨリ明治一四年六月迄其職務ヲ負担ス、即チ法律規則ヲ確守シ公正無私、忠信正美ノ心ヲ執リ、上ハ行政事務ヲ従事シ、下ハ村ノ理事者トナリ以テ公益ヲ謀ルベシ、因テ衆人ノ面前ニ於テ堅ク誓ヲ立ルモノナリ(史料編Ⅲ・四七頁)
 戸長に当選した鈴木七郎平は住民に対し法令を堅く守り公正無私の精神で行政事務に従事することを誓っている。戸長の村々における立場は重要な意味をもっていた。
 戸長改選については村としても重要な意味をもってきた。明治一四年大谷村で戸長に当選した阿久津譲は辞退したため、次点の者を推したが病気その他の事故でここで改めて再公選することを郡長に伺書を提出している。
 戸長は単なる有力者順送り採用といった形式的なものでなく、あくまで村民との密な関係におかれていたことを知るのである。

図29 狭間田村戸長役場用係委嘱状(伏久 塚原征文家蔵)