民権運動の芽生えは、征韓論で下野した板垣退助らによって明治七年(一八七四)一月「民選議院設立建白書」が左院(立法上の諮問機関)に提出されて表面化した。その後、政府は対応策として地方官会議を開いた。第一回地方官会議では道路、橋梁、堤防などの修復のほか、地方民会設置などが審議された。明治九年に入ると「小区公選民会約定書」などを定める町村が県内各地にみられた。高根沢町域内にもその動きがみられたことは前節で述べたとおりである(第一節第三項「小区公選民会」参照)。
三新法が布告されると、栃木県でも府県会規則により県会議員の選挙が行われ、明治一二年の第一回選挙で塩谷郡では鈴木良一(飯室村)矢板武(矢板村)滝沢喜平治(桜野村)の三名が当選した。彼らはいずれも地方の地主や豪農商といった有力者であった。
明治一三年以後、全国的な民権運動の高まりを反映して、「栃木新聞」紙上では国会開設要求について活発な議論がかわされた。七月には塩田奥造、新井章吾、田中正造、小室重弘らによって「栃木県下同志諸君ニ告グル書」が発表され、この呼びかけに対し、八月二五日には団結会準備会がもたれ、ここに下毛結合会の第一回会合が開かれた。この会は、はじめから分裂の気配をみせ、建白主義を唱える安蘇結合会、宇都宮団結会、請願主義をとる下野有志共同会との三派に分かれそれぞれ独自の運動を進めた。
塩谷地区は傾向として下野有志共同会の流れを汲んでいたと思われる。この地方の政治運動はむしろ消極的で、演説会も明治一三年には一一月五日道下(塩谷町)で土居光華、山川善太郎を招いて行われた程度であった。その後、荒川高俊、土居光華を招いて矢板川崎村の龍泉寺で一一月一六日に、一二月九日には再び道下で土居光華を招いて運動は少しずつ動きはじめた。
こうした活動を通して塩谷郡有志は政治的結合を図ろうとしたが、主張があわず一本化への活動はみられなかった。高根沢地域で当時政治運動に参加し活動した人は阿久津譲、見目清の二名である。彼らは山崎彦八、村上謙吉、青木慶三郎、若目田直三郎らと共に奮発して一一月二〇日に氏家宿で会合を持っていた。このようななか、塩谷郡、那須郡の有志で国会開設の建言書が具体的形として現れてきたのである。