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国会開設建言書

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 民衆の声を国政に反映させるため明治一〇年代に入って国会開設の運動は全国的に野火のごとく拡まった。明治一三年(一八八〇)国会開設請願運動は全国で建白四二件、請願一二件に達し、実際の参加者は二四万六三二八名にものぼった。栃木県についてみると元老院に提出したものが四件、直接請願したものが一件である。元老院に建白したものは
 
  一、一一月一日、栃木県士族戸田譲、円山信庸を総代として河内、都賀、芳賀三郡一三二名の連署によるもの
  二、一一月一二日、田中正造、今泉正路、山口信治を総代とする安蘇、足利、梁田、下都賀、芳賀、群馬県邑楽郡を含む六八四名の代表によるもの
  三、一二月六日、梁田郡の大谷宗七、秋田啓三郎による梁田郡人民一、一〇六名の総代によるもの
  四、一二月一四日、塩谷郡の阿久津譲、見目清を代表に塩谷、那須両郡人民二七〇名総代によるもの
 
 一方、請願したのは下野有志共同会で下野国七郡八町一〇宿二九三村同志人民八、七二五人を代表して横堀三子、塩田奥造によって提出されている。
 栃木県下各地での政治的高まりのなか塩谷、那須両郡を代表して建言書を提出したのは太田村の見目清と大谷村の阿久津譲である。当時の「栃木新聞」には「塩谷郡太田村見目清、同郡大谷村阿久津譲の両氏は、このたび同郡有志者の総代となり国会開設建言書を元老院へ呈出せんとて本月一五日右書面を県庁へ差出されたりと」と記されている。また明治一三年一二月一七日「栃木新聞」の広告の欄に次のような広告を出している。
 
  生等、諸君ノ依托ニヨリ国会開設建言書ヲ元老院ニ呈セント欲スル処、この度太政官第五三号ノ布告ニヨリ地方庁ヘ本月一五日、同書ヲ差出セリ此段同盟諸君ニ告ク
               塩谷郡太田村平民
                   見目  清
               同郡大谷村平民
                   阿久津 譲
 
 建言書は神明に誓って哀訴するとして自らの心情を述べている。「今ヤ清等大イニ覚悟スルアリ、進テハ国家ヲ負担スルノ義務ヲ尽シ、退テハ自治ノ精神ヲ躍起シ、彼ノ至貴至重ナル叡旨ニ答ヘ奉ントス」として上下同治(平等)の制を定め、このため「国会ヲ開設シ広ク全国衆智ヲアツムルヨリ急ナルハナシ」と訴えている。このように明治維新以来の薩摩、長州を中心とする一部有司専制政治のあり方を批判し、民衆参加による政治により国家のために尽くさんとしている。具体的に人民に参政権のないことをなげき「速ニ国会ヲ開設シ、上下疎隔ノ源ヲ塞キ国会ノ智力ト精神ヲ活用シ邦家ヲ愛重スルノ元気ヲ勃興シ、国権ヲ伸長シ以テ国家ヲ泰山ノ安キニ置キ」と、積極的に国会の開設を訴えている。高根沢町の二人の活躍は塩那地方はもちろん、県内に大きく波紋をひろげた。

図34 国会開設建言書(伏久 塚原征文家蔵)