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大同団結運動

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 明治一七年(一八八四)の群馬事件、加波山事件、秩父事件と続く一連の激化事件後、自由党は解散、改進党では党首大隈重信が脱党し、方向性を失った民権運動は衰退の道を歩みはじめた。他方、政府は憲法制定を目指し、精力的に権力機構構造の基礎を構築していた。この間、自由党の解党に反対していた星亨は国会開設の期限(明治二三年)が近づくのをみて、少しでも対応可能な状態まで政党勢力を回復するため民権派の再結集を考えた。星は「小異を捨てて大同につく」というスローガンを実践しようと明治一九年一〇月二四日、全国有志懇親会を浅草の井生村楼で開催した。これが大同団結運動の始まりである。
 栃木県では同年一二月一〇日宇都宮の宮盛軒で県会議員、豪農商有志一〇〇名余が集まり演説会がもたれたが、主唱者は旧自由党であった。一方、改進党には大同団結運動への積極的参加協力はみられなかった。当時、塩谷郡の県会議員は見目清(太田村)和田方正(片岡村)若目田健次郎(上阿久津村)三名でいずれも改進党であり、大同団結運動にはむしろ消極的の感をまぬがれなかった。
 一方、旧自由党は、明治二一年九月に下野倶楽部を組織して政治の鼓動は高まった。下野倶楽部は「国利民福」を図ることを目的に「自治精神ヲ培養スル事」で県内各地に支部を組織していった。活動は塩谷郡では明治二二年に入って動きがみられ、六月二九日に矢板村で、翌三〇日には上高根沢において政談演説会が開かれた。荒川高俊、神谷温作、秋山謙吉、柏原勇蔵、中山丹治郎らが参加し、演説会の後に有志懇談会がもたれた。七月二〇日玉生村で行われた演説会では当時大同倶楽部員であった北高根沢村の助役小松清四郎は「代議政体の下に立つ人民の本分を論ず」という演題で演説している。また二一日赤羽宥松方での演説会には三〇〇余名の聴衆か集まり、小松清四郎(代議政体の下に立つ人民の本分を論ず)神谷温作(読憲法)秋山謙吉(尚武論)新井章吾(日本政党の沿革)荒川高俊(立憲政を維持する策如何)らが演説し、夕方小学校で有志懇親会が開かれ一〇〇余名が参集している。開明的であった村長加藤東十郎、助役小松清四郎は村内の思想向上を図るため平田に新聞雑誌縦覧所を設け、管理者に鈴木平吉、鈴木長一郎をあて立憲思想普及につとめた。同じように上阿久津村、中阿久津村、宝積寺村も明治一〇年代より「朝野新聞」、「絵入自由新聞」、「栃木新聞」などを購入して村民に立憲思想普及を図っていた。

図36 赤羽宥松
民権運動に活躍し第2代村長になった赤羽宥松