明治二二年(一八八九)二月一一日に帝国憲法が発布された。県民はこれを祝して各地で祝賀会を催した。高根沢町域でも平田村では鈴木九平、加藤東十郎の発起で旧平田学校内において憲法発布祝賀会を行い一六〇名の参加者を数え、祝歌及び演説などが行われた(「下野新聞」明治二二年二月二八日)。当時、政治的問題として浮上したのは大隈重信外相が進めていた条約改正案が社会に洩れたことである。改進党系は大隈の改正案を弁護し、栃木県でも改進党系の明治倶楽部(田中正造系)、下野明治倶楽部(横尾輝吉系)は賛成の立場で条約改正断行建白運動に入った。その建白数は本県が第一位で四四件、第二位は兵庫県の一七件で全国的にみても圧倒的な数を示した。県内は大部分が安蘇、上都賀地方といった田中正造、横尾輝吉の地盤で塩谷郡では一件の建白運動もみられなかった。
他方、旧自由党系は憲法発布後、新井章吾、荒川高俊ら有力政治家が恩赦で出獄し次第に勢力をとり戻し政治活動は活発化した。塩谷郡では学術演説会がもたれ氏家町では八月六日小学校で開かれている。会主矢口縫太郎が開会旨趣をのべ経済学、財政学、法律と各般にわたる演説が行われた。この実施に当って鈴木良一、阿久津讓、見目清らが奔走し、「当郡は南北共に近来大に学術の思想、青年社会に勃興したのは同郡にとりて希望的光景を認めたり」(「下野新聞」明治二二年八月九日)といった状況が生みだされた。
こうした動きの中で条約改正中止建白運動は旧自由党系によって行われた。具体的に建白運動が行動に移ったのは八月段階からで一〇月に入って一挙に拡がった。塩谷郡では八月という早い時点で那須、塩谷郡有志八〇名の署名が建白総代柏原勇造(大田原)によって元老院に提出されている。ついで一〇月三日、小松清四郎は芳志戸(現芳賀町)の大島宗七郎と共に一〇〇名の署名をもって県庁に、さらに八日には小松清四郎は塩谷、芳賀郡有志四八名を代表して元老院に提出している。塩谷郡は改進党系が多いなか、条約改正中止建の動きを通して高根沢地域は旧自由党系の地盤が強くなった。