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学術研究会

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 明治二二年二月一一日帝国憲法が発布され、また町村制が公布され新たに町村が誕生した。また二三年には第一回衆議院議員選挙が実施されるという状況下にあって、改めて政治面の教養の必要性を求める動きが高まった。北高根沢村では明治二二年(一八八九)一二月一五日、太田で懇談会を開き学術的会合の必要性を認め、二二日太田尋常小学校で学術研究会発会式を行った。会長に見目源造、副会長に渡辺庄平が選ばれ、夜の教育幻燈会には四〇〇余名の参加者があった。以後月一回のペースで研究会がもたれた。第六回学術研究会は明治二三年七月一七日、炎天下をも厭わず五〇余名が集まり盛会であった。話の内容は見目源造「風俗改良論」、湯沢松郎「本会の盛大を祝し併せて将来に望む所あり」などが述べられた。
 学術研究会はまず数氏による演説会が行われ、その後、議題を提出して討論会がもたれた。論題のいくつかをみると次のようである。第七回では「父と母とは何れが最も尊きや」第八回では「兄妹無人島に漂着せしときは夫婦となるべきや否や」、第一一回では「作文と算術とは何れが急務なるや」などが討論された。当時、上高根沢には青年倶楽部、太田には北高根沢学術研究会が、平田には学術、知識、弁論を精錬する亀国青年団(史料編Ⅲ・九九頁)があり、いずれも隆盛の模様を示した。
 学術研究会が会を重ねるころ、北高根沢村には青年倶楽部の組織があり二三年四月二七日には「この度自治制に基き、北高根沢村に高等小学校を創立するに付、大いに感ずる処ありて現在の上高根沢高等小学校を以て右高等校となし新築舍を以て機械書籍等を求めなば大に教育の進歩を計らる可し」との建議書を作り倶楽部長荒川定四郎より村長に提出している。具体的会合は八月二二日に第一回集会がもたれた。最初に部長の荒川定四郎が会務を報告し次いで「実業と教育とは何れが先務なるや」につき討論、それより会員の演説に移っている。まず宇津誠四郎「本会の方針」、佐間田喜太郎「青年未来の覚悟」、宇津謹六郎「弁論の研磨にのみ偏するなかれ」、友常保五郎「数学の目的」、阿久津定三郎「農業に付いて」と演説が続いた。