当時の塩谷郡の政情は総選挙の前哨戦ともみられた三月の県会議員選挙で明らかになった。従来改進党によって独占されていたのが、改進党は全敗し、秋山謙吉、桧山六三郎、小松清四郎の自由党員が独占するという大逆転がみられ(表39参照)、戦局は旧自由党系に有利に展開していた。
総選挙にあたって、第四区那塩地区の立候補者には中立派の和田方正、見目清らの外に有力候補として郡長経験のある人物二人が活動していた。一人は地元改進党をバックに立候補した藤田吉亨で那須郡長を明治一八年に辞任、改進党から県会議員(那須郡)に当選していたが今回の総選挙に臨んだ。地盤的には那須郡の大半を領域としていた。もう一人は坂部教宜で塩谷郡長から那須郡長を歴任し、総選挙を目前にした明治二三年五月一四日付で辞任、総選挙に名のりをあげた。彼は「我れは自由主義なり」と旧自由党的立場を表明して独自の政治戦略を展開した。下野新聞は総選挙一か月前の政情を坂部について「最初は元気で塩谷過半を圧倒する勢いであったが郡吏の免職、大成会の分離のため勢力後退し、しかしその鋒鋩の鋭利は全区中第一」(「下野新聞」明治二三年六月一日)とその存在は一きわ際だっていることを報していた。
旧自由党系は有力候補の荒川高俊(黒羽町出身)が明治二二年九月五日、壬生町で開催した条約改正反対の演説会中、脳溢血で急死し、後継者問題で苦慮し、輸入候補に頼らねばならなかった。有志は四月二八日大田原町に集合、投票で候補者を選んだが、投票総数四三票中塩田奥造が三八票で候補者に決定した。塩田は下都賀郡吹上(現栃木市)出身で民権運動以来活躍した政治家であったが、第二区(上・下都賀郡)は新井章吾等の大同協和会が有力で大同倶楽部の塩田奥造は苦境に立たされていた。ここに塩那地区の誘いは彼の心をゆさぶった。第四区(塩那地区)は塩田の交渉に秋山謙吉、小松清四郎(北高根沢)、佐伯有敦の三人を上京させ彼を立候補にふみきらせた。五月半ば、西那須野村那須三六七番地に寄留した塩田はさっそく選挙戦を開始した。塩田の立候補は塩谷地区に新たな空気を吹きこんだ「塩那両郡の空気は久しく改進と保守とに閉じこめられ、実に腐敗を極めたり、今や自由の主義、滔々として水の流れる如く、有為の志士簇々として雲の出る如し」(「民声」二号七頁)と、希望を失いかけた塩那の旧自由党は活発な活動に入った。
北高根沢村の政況も自由主義を有する者にとって衆議院議員の候補者未定の時は運動も定まらなかったが、塩田の決定により活発化し、五月二三日には赤羽宥松方に有志が会合し、塩田の来会にあわせて演説会が開催された。選挙の結果は塩田奥造五四一票、坂部教宜三六六票、藤田吉亨三二三票、和田方正一九八票で塩田奥造が当選した。
表38 愛国公党創立会出席人名
郡名 | 町村名 | 氏名 |
塩谷郡 〃 〃 〃 〃 | 北高根沢村太田 〃 下柏崎 〃 〃 矢板村 | 小松清四郎 古口直一 佐藤治郎平 川俣角三郎 福田作平 |
那須郡 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 | 大田原町 東那須野町 大田原町 金田村 烏山町 東那須野町 大田原町 芦野町 〃 東那須野町 烏山町 武茂村建武 | 柏崎勇蔵 岸上景夫 江連兼太郎 益子建吉 平野辰三 小林清太郎 江連賢盛 渡辺佐太助 印南聴慎 中島常吉 石川庚 菊地六之助 |
表39 塩谷郡県会議員当選者(明治23年3月)
氏名 | 党名 | 町村 | 票数 | |
当 〃 〃 | 秋山謙吉 桧山六三郎 小松清四郎 | 自由党 〃 〃 | 喜連川 氏家 北高根沢 | 885票 431 431 |
図37 塩田奥造(大町雅美著『栃木県の百年』より)