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第二回総選挙

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 第一回の衆議院議員選挙において栃木県は一区横堀三子、二区新井章吾、岩崎万次郎、三区田中正造、四区塩田奥造の五名を衆議院に送り込んだ。第一回の帝国議会は明治二三年(一八九〇)一一月二九日に開会された。立憲自由党、立憲改進党など民党は絶対多数を占め、「経費節減」「民力休養」を要求し政府と対立した。政府は自由党内の土佐派を懐柔して第一回議会を乗り切った。翌二四年一一月に開かれた第二回議会は樺山資紀海軍大臣の、国家の安寧は薩長政権の功であるとした有名な「蛮勇演説」などで紛糾し解散した。
 明治二五年(一八九二)自由党は第二回総選挙に臨むにあたり現職再選の方針で総選挙に臨んだ。この時の選挙は品川内務大臣の極端な選挙干渉が行われ、内務大臣から本県知事、警察署長あてに次のような訓令が送られた(『栃木県政友会史』)。
 
  一、民党候補者のために尽力奔走するものあれば、探偵を尾行せしめ、温和なる地方財産家などをして厭うて運動の念を絶たしむる事
  一、知事は兎狩りと称し、又は鳥打ちと唱へて時々出張し、管内有志家の家に宿泊し、又は休息して暗に主人を吏党に引込む手筈をなすと同時に、主人の性質、身許及将来の主義、交際等至急申出ずへき事
 
 第二回総選挙を迎えた時、改進党の塩那地方(第四区)の選挙体制は一変していた。第一回総選挙の結果が発表された明治二三年七月三日、改進党の塩那両郡有志は大田原町の印南屋に会合し今後について協議した。内容の第一は、和田方正に改進党へ加入するよう勧めること。次に塩那両郡中、必要の箇所で演説会を開くこと、第三に主義拡張遊説委員を出すことであった。こうして和田方正の改進党入りがほぼ決まり、次の総選挙は和田を推して戦う体制が整っていたのである。選挙が告示されると改進党は候補者を和田方正に一本化した。すなわち、明治二五年(一八九二)一月二〇日、改進党員は佐久山町に会合し、侯補者選定のため一〇名の委員をえらび、委員は翌日氏家町に出張二二日に和田方正を推すことに決した。党内対抗馬の藤田、塩谷道博は和田推せんに賛成し、改進党は一本化して戦うことに決した。県会議員を独占している立憲自由党の塩田にとっても一大強敵の出現となり、激しい選挙戦が各地で展開されていった。
 北高根沢村では二月一日平田の鈴木良一郎宅で自由派政談演説会が聴衆四〇〇余人を集めて開催された。弁士と演題は手塚賢(国分寺村、県議)「須らく民党議員は再選すべし」、二区出身代議士岩崎万次郎「第二議会」。塩田奥造「衆議院解散に付」で演説を行っている。懇親会には県会議員小松清四郎はじめ有力政治家が参集した。総選挙は、明治二五年二月一五日実施され立憲改進党の活躍むなしく和田方正は落選、立憲自由党塩田奥造の勝利となった。
 
表40 第2回衆議院議員選挙結果
選挙人1584人
棄権  134人
無効   2
氏 名得 票
 当
 次
塩田奥造
和田方正
小山忠録
  763票
  523
  159