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第三回総選挙と改進党

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 和田方正に一本化をはかり第二回総選挙を戦った改進党は次第に勢力を拡大した。選挙の結果は表40にみられるように塩田奥造の七六三票に対して五二三票と二四〇票の差にまで追い上げてきた。改進党はこの体制で二年後の明治二七年三月一日、第三回総選挙を迎えた。
 第三回総選挙は県内では予想を上回る激しい選挙戦が展開され、第一区では暴力事件が多発し、東京から鎮圧にきた憲兵が監視するといった状況であった。第四区も予想にもれず、自由党塩田奥造と改進党和田方正の一騎打ちとなり、激しい戦いが繰り広げられた。
 塩田奥造は第一区の星亨と協力しており反星派は彼らを「妖星一派の悖徳漢」といって新聞紙上で非難したが、第四区でも塩田奥造への非難が新聞紙上をにぎわせた。
 「下野新聞」によれば塩田派が改進党県会議員宅に仕込杖を携え「改進党を脱党すべし」と談判をしたとか、塩田派が二月二〇日乙畑村で和田派に発砲、狙撃し七名が負傷したとか、一六日玉生村で和田、塩田両派が衝突したとか両派対立の記事が連続して紙上をにぎわしていた。大勢は塩田派の行動が批判の対象となり、各地で和田派への鞍がえが行われていた。熟田村柿木沢も塩田奥造の牙城であったが、「自由党の非行日に重なると奥造殿の悖徳なることに就き大に憤慨し、全字一一名の有権者は断然正義派和田方正氏を推選する事に一決し、去る一五日懇談会を兼ね全字一同の決意を示したりという」(史料編Ⅲ・一〇八頁)。このような動きは乙畑村にも起き過去二回の塩田応援を今回は「和田氏推せん」と変更している。
 新聞による大勢は塩谷郡では和田派七分を占め、塩田は三分、那須郡では和田派八分、塩田派は二分とみて「和田氏が大多数をもって当選すべし」(「下野新聞」明治二七年二月二六日)と、和田方正の絶対優勢を報じていた。
 選挙は三月一日に行われ結果は表41にみるよう塩田奥造が僅か一三票差で当選を果たした。予想を完全に覆し、塩田支持派の根の深さを思いしらせた選挙であった。しかし惜敗したとはいえ塩田を追い上げてきた和田には次は勝てるという勢いがあった。同年九月の第四回総選挙で和田方正は勝利を得、塩那地区での改進党の地盤が確立した。しかし代議士を射止めた和田は翌年五月二日に病死し、補欠選で藤田吉亨が選ばれた。第五回総選挙は北高根沢村出身の見目清が国会議員の栄を得たのである。
 
表41 第2~5回衆議院議員選挙結果
    3回(27年) 4回(27年) 5回(31年)
選挙人  1724     1724    1818
棄権    236      224     324
無効     4       1      2
 塩田 奥造
 和田 方正
 小山 忠録
 見目  清
 安藤小次郎
◎ 744
 731
 9
699
 ◎ 823
 2
 
 
 
◎ 902
 582

◎印 当選