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町村合併計画

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 町村制実施、新村組織について明治二一年段階で郡長より各村々惣代に諮問があった。それ以来、合併をめぐって議論百出し、一定の決定までにはある程度の時間を要した。新しい村の範囲をめぐっては幕藩体制下の支配地問題、民情風俗の相違、道路、用水をめぐる問題など多種多様の要因が存在し、これらが絡みあって問題を複雑にしていた。
 高根沢地区に提示された町村合併案は、政府の明治中央集権国家体制へ移行するための役場の機構の組織性はみられず、明治一六年の連合戸長役場制の村落の組合せがそのまま町村合併案となっている。
 改めて連合戸長役場制との関係をみると、町村制案では太田村外一一か村はそのまま北高根沢村、上阿久津村外四か村もそのまま阿久津村となり、狭間田村外一二か村はその内、葛城、早乙女の二村が喜連川町に編入され、残りの一〇か村は熟田村に編成されることになっていた。組織替えになったのは、葛城村と早乙女村が喜連川町に編入になったのみで他は全く変化がみられない。
 町村合併以前の村落区域の規程をみると、幕藩体制下の長く続いた生活慣習下で作られた村々の結びつきは、明治維新以来の中央集権化の名のもとに大・小区制により断ち切られた。村民たちは郡区町村編成法以来もとの村々の結びつきの復活を求めてきた。町村制は村民たちに有利にみられたが、現実にはそれは政府が求める一定水準以上の財力をもった行政単位を作りだす政策とは矛盾がみられ、ここに各地で住民の反対の動きが起った。具体的には伏久村、文挾村が共同で喜連川町への編入を願い、また上高根沢村と芳賀郡の下高根沢村の合併運動、さらに芳賀郡への郡替え運動にまで話が進んだのである。

図39 町村制の区画編成