両村が共に合併を願い出たのは町村制の布達が出されて数か月後の九月、合村願いを県知事あてに出している。
村民たちは今回の町村制施行は自治制度の本旨にのっとり、隣保団結の旧慣を尊重し地方人民の便宜に任せ、自治区を画定するのだという立場にたって合村願にふみきった。そもそも両村は郡を異にして高根沢村が二つあり、耕宅地は接していて共通要因の多い土地関係を有していた。両村は合併を願い出た理由に歴史上、生活関係の共通点が多いことをあげている。昔は一村であったのを中世期に上、下に分離されたが、産業、風俗も同じで、その上、かつて一橋家の領地に属し、以来冠婚葬祭はもちろん、道路、用水及び入会秣場に至るまで共同で利用し親密さは一村同然であるとしている。両村が合併団結すると戸数は四百戸、地価金二七万余円に達し充分に自治の資本力を持ちうるとして強く合村を要求している。両村の合併運動は単に二村の合村に止まらず下高根沢村の属した芳志戸連合戸長役場(下高根沢の外芳志戸、八ツ木、上稲毛田、給部)という行政地域と上高根沢村との合併という広域合村へと動いていった。
この広域合村願である「村域名称合從願」(史料編Ⅲ・一一四頁)には芳賀郡芳志戸村の見目元一郎、大島宗七郎、大谷津新三郎、給部村は綱川源治衛門、八ツ木村は小堀庄一郎、上稲毛田村は広木岩吉、大島芳治、下高根沢の螺良源内、黒崎源平、黒崎重三郎、上高根沢村は佐間田藤十郎、川又秀二郎、阿久津金次郎、その上芳志戸村外四か村戸長黒崎舜三郎、これらの人々が代表になっている。そして村名を高根沢村とし、各村協議により便宜上芳賀郡へ属するよう願い出たのである。この願は「上高根沢村一村の利害問題」と考えられて、許可されなかった。しかし、この地域の人々の「高根沢村」をつくろうとする運動は粘り強く行われた。そこには郡を越えての合併という「地方人民の便宜」による「自治区の画定」への民衆の強い意思が働いていた。
図41 上・下高根沢合村、村名改称願い(芳賀町 大島三郎家蔵)