ビューア該当ページ

新村の誕生とその後

143 ~ 147 / 794ページ
 町村制の公布以来、約一年間にわたって町村合併について論議が続いたが、明治二二年(一八八九)には最終的に確定され、四月一日から新たな町村が誕生した。高根沢町域内には北高根沢村(太田、栗ヶ島、寺渡戸、上高根沢、桑窪、上柏崎、中柏崎、下柏崎、亀梨、平田、花岡、西高谷)と阿久津村(上阿久津、中阿久津、宝積寺、大谷、石末)熟田村(狭間田、松山、松山新田、箱森新田、上野、柿木沢、柿木沢新田、伏久、飯室、文挾、鍛冶ケ沢)の三村が成立した。連合戸長制時代、戸長役場位置を伏久へ移して欲しいという願を出した伏久、飯室、文挾らは願の甲斐なく狭間田に役場を置く熟田村に編入された。また大字上高根沢は芳賀郡下高根沢との合併、郡替えの請願も空しく塩谷郡北高根沢村に編入された。
 北高根沢村は最初大字太田三九番地小松留吉方に役場を設け、二二年六月一一日に開庁した。個人宅では業務が充分に行えず、初代村長加藤東十郎を中心に役場の新築計画が進行した。具体的な建築は二代目村長赤羽宥松が明治二五年に就任してからである。建築費については村税のほかに村内有志から寄附金を募集した。予定額は二〇〇円とし、応募額は五〇銭以上とし、二五年一二月までに納付することにした。結果は表42のとおりで合計五四二円五〇銭を集めることができた。こうして太田字堀之内に新築の役場庁舎が完成し、明治二六年三月落成式を行った。落成式には郡長はじめ、村長、村会議員その他各界からの祝辞があった。
 赤羽村長は祝辞の中で役場新築の意義について「村は国家からは蒼海の一粟にすぎないが、政界組織の一原素である。冀くば一国の和協亦然る事を望む、国家に属する建築の如きも高大美麗を要せず、利便を要として民力休養、行政の整理こそ望まれる」(「巨徳報記」注「寿」)と、役場建築は便利で簡素なものにして民力休養、行政の整理こそ大切であると述べている。また祝辞の中に欄外祝文として北高根沢住民総代苔野一心の名で次のような文がのっている。
 
  役場の新築、おらが村には出来たんべい、それと申すも有志の寄附金、庄屋の骨おり、ありがた涙で筑波も霞むぞ(中略)いくら親爺が稼いでためても、息子が馬鹿なりや、しんしょが潰れる、しんしょがおしけりゃ、教育しなせへ、教育するには学校改良、道路の改修一番先きだよ、(中略)なんぼ役場が立派に立っても、正味がなけりやあ開化にや至れぬ、今日の祝いも錦の夢だと(中略)(「巨徳報記」)
 
 このように村民の中には役場新築に対して皮肉をこめた文もみられた。
 役場は後に近くの太田五八三番地に移転したが、当地は町村合併まで北高根沢地域の中心であった。
 阿久津村では役場開庁以前にまず大字五か所に村政等を公示する掲示場が設けられた。上阿久津は字中町国道東側、中阿久津は字清水川国道西縁、宝積寺は字上中丸国道西縁、大谷は字桑原大谷分教室門前、石末は字宿に定めた。そして役場は上阿久津二五番地に明治二二年五月三〇日に開庁した。その後間もなく東北線の開通で上阿久津河岸は衰退したので、役場は明治二三年に中阿久津二九番地(現四八七番地)に移った。明治三二年一〇月、宝積寺駅が開設されると交通、商業、文化面の中心地が移動したのにつれ、明治三八年に現阿久津中学校の南西端(中阿久津一、四七九番地)に移したが、さらに大正七年に役場位置を駅付近の宝積寺二、四二四番地に定め、翌八年七月に落成移庁した。移って間もなく大正一一年三月一九日火災にあい、一時駅前の宝積寺二、三七四番地一九に仮庁舎を移して業務を続けたが、大正一三年一一月に新役場落成、以後戦後の合併までここが行政の中心となった。
 現在高根沢町域にある文挾、伏久、飯室は明治二二年町村制以来熟田村に属していた。それ以前は狭間田村に戸長役場をおく連合村であった。町村制成立の際の村名については有志の会合で協議された。一案は狭間田村で地元狭間田は強く主張したが他の同意を得られず、二案の市の堀村も堀が他村に及ぶとして得られず、戸長阿見良作は郡長坂部教宜に相談、その結果、かつてこの地が東山道の「新田駅」が設けられていたところから「にいた」の発音にし、穀倉地帯から「熟田村」と決定したとの由来がある。
 熟田村は役場を狭間田二七番地(現一、七〇一番地)に設け、明治二二年六月一日より業務を開始した。その後、たびたび位置をかえてたが、明治四〇年役場新築が議決され、狭間田一、六五六番地に決まり、小野喜七所有の山林六畝歩を分割買収した。役場は氏家町役場を参考にし木造二階建て、建坪七八・九五坪の新庁舎が明治四一年に竣工した(『氏家町史』下巻)。

図43 初代北高根沢村長加藤東十郎


図44 初代・第7代阿久津村長阿久津強平

表42 北高根沢役場新築寄付金
寄附金 535円
鉄火鉢1個 代金3円50銭
広告料 2円 下野新聞社
寄付人員惣数 237人
通算合計金 542円50銭

明治25年10月「役場新築寄附金簿」より
 
表43 町村制施行後の新村(明治22年)
新村名北高根沢村阿久津村熟田村
役場位置太田上阿久津狭間田
合併大字




太田、平田、上柏崎
中柏崎、下柏崎、亀梨
桑窪、寺渡戸、栗ヶ島
西高谷、花岡、上高根沢

上阿久津、中阿久津
宝積寺、石末、大谷 



狭間田、文挟、伏久
柿木沢、柿木沢新田
上野、松山、松山新田
鍛冶ヶ沢、葛城、早乙
女箱森、飯室
戸 数626戸488戸511戸
人 口5,363人3,885人3,636人
反 別3525町 6反 3畝28歩2548町 2反 7畝21歩2264町 1反 7畝
地 価34万5222円 1銭 4厘21万3750円88銭 8厘 15万3294円49銭 8厘

表44 町村制施行後の新村三役と議員
村  名村  長助  役収入役議    員
北高根沢村








加藤東十郎








小松清四郎








鈴木九平








古口軍平、赤羽軍平、矢口九内
矢口長右衛門、加藤東十郎、
渡辺庄平、鈴木啓三郎、
小堀範十郎、見目清、山本滝平
小堀勝造、小林正斉、鈴木九内
古口兼吉、岡本五郎平、
加藤太平、古郡弥一郎、
鈴木粂三郎
阿久津村






阿久津強平






増渕小平






見目元吉 






土屋幸七、増渕小平、
阿久津強平、阿久津唯四郎、
野中喜代造、国友半六郎、
加藤孫一郎、斉藤兼吉、
菊地幸八、見目嘉一郎、
阿久津藤蔵、野沢清十郎
熟田村






阿見良作






小野文平






猪瀬猛夫






小野文平、高垣清三郎、
大谷各次、大木茂三郎、
阿見良作、阿見一郎、
松本喜一郎、土屋半三郎
上野四郎平、植木彦與、
塚原直一郎、鈴木良一


図45 阿久津・北高根沢村役場の位置変遷