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道路網の整備

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 明治政府は、近代国家の建設を推進し中央集権国家体制を推し進めるための基盤として、交通体系の近代化や道路網の整備に力を注いだ。
 江戸時代の街道は、道中奉行の支配下にあったが、明治期になると大蔵省の所管となった。明治六年(一八七三)八月大蔵省は道路等級に関して布達を出し、これにより、奥州街道は陸羽街道と改称され、翌七年には一等道路と定められた。この陸羽街道は本県では茨城県境の野木より福島県境の寄居までの道路で、県内最大の幹線道路となった。なお、日光街道・旧例幣使街道など栃木県関係の四〇道が二等と定められた。その後、九年六月の太政官布達によって、道路等級は廃止され、新たに国道・県道・里道に区分された。国道については一八年一月に、等級区分は廃止され、この年三島通庸が内務省土木局長のとき全国の主要道路に番号をつけることにし、従来喜連川・大田原を経由する陸羽街道は国道六号線に指定された。その後、三島県令により開削された矢板・西那須野・黒磯を通る道路が、国道六号線となるのは、鉄道が県北まで開通してからのことといわれる。