ビューア該当ページ

陸羽街道の開削と三島県令

155 ~ 157 / 794ページ
 明治一六年(一八八三)一二月一二日、三島通庸は福島県令と兼任で栃木県令として着任する。天保六年(一八三五)、現在の鹿児島県上ノ園で生まれた三島は、維新後、宮崎県都城の地頭を皮切りに、東京府権参事・教部大丞の後、山形・福島・栃木県令を歴任し、内務省土木局長・警視総監となった。自由民権運動の弾圧者として「鬼県令」の異名をとるが、一方で道路網の整備や都市計画を実施し「土木県令」の顔も持つ。三島は着任早々栃木から宇都宮への県庁移転を断行し、併せて陸羽街道及び塩原新道の開削・改修に着手した。
 県庁移転については、当時県庁は栃木町にあり、栃木町は自由民権運動の中心地であった。三島は、以前から民権思想を快しと思わず、栃木県令になると県庁移転を断行した。そして、県の交通の要衝であり、一五年ごろより県庁誘致に熱心だった宇都宮への移転を行った。一方、三島は福島県令時代に白河から国見までの道を国道らしく整備し、地域の開発は国の発展の基礎になると信じて道路整備に当たっていたが、栃木県令を拝命すると、新たに陸羽街道の改修と会津三方道路の開削、塩原新道の開削へと土木事業に熱が入った。
 陸羽街道の改修工事は、一七年四月に着手し、わずか五か月で竣工し、道路幅四間以上両側に三尺の側溝をもつ直線的な幹線道路が完成した。道路は、宇都宮以南は陸羽街道沿いに、氏家―白河間は江戸時代からの原街道沿いに改修され、宇都宮―氏家間は新たに道を開いた。新道を設けたことには鬼怒川の洪水が影響していた。旧道の阿久津―白沢の間は鬼怒川の本流と西鬼怒川があり、毎年のように洪水によって道路も流されるといった地域であった。また、阿久津河岸付近は鬼怒川の川幅が広く橋を架けるにも容易ではなかった。これらの悪条件を考え路線の変更となった。新たな路線がどこを通るかは沿線宿村の、大きな関心事であった。当初の路線計画は、宇都宮―岡本―宝積寺(石神)―中阿久津―上阿久津―氏家であったが、これに対して石神―宝積寺台―大谷―氏家宿古町に通ずる路線も地元民から要望があり、この二つの路線をめぐって、双方から請願・嘆願が繰り返され、献地・献金の申し出があるなど、激しい誘致合戦が行われた。しかし、結果的には中阿久津・宝積寺その他の人々の道路敷地献納、架橋費の地元負担などの申し出が受け入れられ、当初の計画路線に落ち着き、工事の着工となった。負担した工事費の内訳をみると、宝積寺村二、〇〇〇円、上阿久津村二、〇〇〇円、氏家・馬場村一、〇〇〇円、そして桧山六三郎(氏家宿)が五〇〇円を負担するというものであった。他に氏家・馬場両村は今宮神社の杉・檜全部を一、〇〇〇円と見積って出すこと、もし一、〇〇〇円に達しない場合は、木材運搬の人夫を両村より出すといったものであった。この負担は各宿村においては厳しいもので、宿村協議費では足りず、借金や臨時費を組んでようやく負担分を納入したといわれ、上阿久津村では一五名が借用惣代となり、永倉弥平に宛てた一〇〇円の借用証書(ミュージアム氏家蔵 永倉家文書)が残されている。しかしながら、国道が自分たちの村を通る利益を考えると、これは耐えねばならないことだった。この橋は翌年の洪水により流失してしまうという悲運に見舞われ、翌年、福島県北会津郡湯本村の山内千代吉が再架設を担当し堅牢な築造法で完成している。その後も石神の橋は洪水により流失と再架設の歴史を繰り返していくのである。

図1 三島県令(西那須野町郷土資料館提供)