江戸時代に陸上交通の担い手であった宿駅は、明治元年(一八六八)の駅逓司設置により街道と宿駅を管轄下に置き、宿・助郷の組替えや人馬定賃銭の改定などが行われた。つまり、宿駅と助郷村とを合併し、負担上の区分をなくし、さらに今まで助郷賦役を免除されていた社寺領や御領・公家領などがこれに組み込まれることとなった。しかし、この改正は宿や助郷村の根強い反対にあい実現できず、定賃銭だけが大幅にひきあげられることとなった。こうして、政府の強行的な運輸政策は、宿や助郷村に受け入れられず、挫折へと追い込まれた。
宿駅の仕事にたずさわっていた人たちは、こうした政府の公的な宿駅制度とは別に、民間による専門の継立業者を組織し、会社を設立して、宿駅制度に変わる組織をつくろうとした。
一方で政府は明治三年五月一二日に民部省と大蔵省の合議により「宿駅人馬に対する継立会社設立の趣意書」の趣旨により指導を行い、各駅に「陸運会社」が設立された。さらに翌年五月には詳細な「陸運会社規則案」がつくられ、これにより陸羽街道の各宿駅に陸運会社請負人の募集が行われた。栃木県は五年六月二九日付で「来月一〇日伝馬所並びに助郷を廃止し更に陸運会社開業いたすべし」という達しを出した。これにより野木宿より石橋宿までの伝馬所・助郷は七月一日に廃止となり、陸運会社の営業が開始された。宇都宮県は五年に次のような布告を出している。
陸羽道中陸運会社当七月一〇日より開所になったので、公私荷物、其外すべて会社と荷主が交渉して運賃を決め運送する事になった(中略)この事をよく心得ておきなさい
壬申七月三日 宇都宮県 (『南河内町史』史料編四近現代・四四四頁)
塩谷郡関俣村の岡本五郎平から陸運会社設立の願書が六年五月四日に宇都宮県令鍋島幹宛に出され、許可されている。この中で、関俣村よりの料金としては人足(三人)は一里につき二銭五厘、馬は一里につき三銭五厘と定められた。
県内における陸運会社の設立は、七年二月現在で一二二宿村町にのぼり、そのうち塩谷郡は二三宿村を数えた。しかし、その業務形態は旧伝馬所をそのまま受け継いだ、旧態依然としたものであったという。しかしながら、この陸運会社も三年足らずの命で、八年五月には解散・再編成を余儀なくさせられるのである。
一方で五年六月に旧定飛脚問屋を中心に、東京への運送請負のための「陸運元会社」が設立されると、同社は各宿駅の陸運会社を傘下に収め、全国的な運送網をつくり始めた。さらに翌年六月に太政官布告により陸運業の私的営業の禁止や各陸運会社に対して陸運元会社に入社あるいは合併することが命ぜられた。これにより、陸運会社が陸運元会社に組み込まれることとなり、上阿久津河岸の回漕関係者も陸運元会社に買収されてその系列化に入った。
陸運元会社は全国的な通運業務に進出し、各駅陸運会社は統合され、八年二月に「内国通運会社」が発足し、陸運の特権を握った。こうした運輸通信網の整備により、新しい時代に即応した体制が取られることとなった。
この時、関俣村の旧問屋岡本五郎平は、次のような願書を県令に出している。
今般、陸運会社が解散となり内国通運会社になりましたので、本地でも公私の継立を本月九月より営業いたしたいのでお聞届け下さい。別紙承諾書写しを添えてお願い申し上げます以上。
第三大区二小区塩谷郡関俣村
明治八年七月二二日 内国通運会社
組合人 岡本五郎平
栃木県令 鍋島 幹殿 右区副区長 上野 周資
また、同月に内国通運会社総代坪野平作・若目田久庫の名で関俣村の岡本五郎平宛てに内国通運会社の営業を許可している。このように、高根沢町域では上阿久津に内国通運会社支店出張所が置かれ、運輸網はしだいに整っていった。