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明治期の水運と河岸の推移

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 江戸期の交通においては、陸運より輸送効率のよい水運が求められていたが、明治維新以後においても、水運は依然として物資輸送の主流をなしていた。しかし、明治中期ごろより近代の交通体系を大きく変えた鉄道の敷設によって水運は急速に衰退に向かう。
 鬼怒川は、栃木県の中央部を北から南へと流れ、他の巴波川や思川・渡良瀬川とともに利根川水系に属し、物資は江戸川を通じて東京へと運ばれた。
 河川を利用して運搬するためには、物資の積出し・陸揚げのための場所が必要であり、そのために河岸がつくられた。県内の河岸の数は、江戸時代の安永年間(一七七〇年代)では、約五〇か所であったものが、明治初年では約七〇か所、一五年ごろでは約八〇か所を数えた。県内を代表する河川であり、距離的にも長い鬼怒川は、県内の河岸数の約三分の一を占めて最も多く河岸が存在した。その中でも上阿久津河岸は、鬼怒川の船が通航する上流地点(遡航終点)に位置するとともに、奥州街道とも接続し原街道に通ずる地点にあり、大いに繁栄した。
 川船については、河川の上流部と下流部では船が使い分けられた。鬼怒川においては、茨城県の久保田河岸を境に上流部では、小廻船(長さ五間前後)や小鵜飼船(長さ約七間)といったやや小型の川船が使われた。一方、下流部では高瀬船(長さ一〇間前後)と呼ばれる大型の川船が通航し、久保田河岸など中間の河岸(中請積換河岸)で荷が積み換えられて運ばれた。
 鬼怒川からの物資輸送は、他の河川に比べて多く、その中でも上阿久津河岸は、明治一五年で約四万六〇〇〇駄にのぼり、上り荷(東京方面)については、取扱い量約二万八五〇〇駄で、取扱い品目としては、一六年では薪炭・米・材木・葉煙草・煙草の順で、これで全体の約八〇パーセントを占めていた。一方、下り荷は約一万七五〇〇駄で内訳は石油・塩・呉服・反物・塩鮭・砂糖の六品目で、九〇パーセントを越えた。他の鬼怒川上流の河岸において薪炭が圧倒的に多いのに比べて、上阿久津河岸が米の割合が多いのは、江戸時代からの回米輸送の伝統と鬼怒川東部の穀倉地帯を後背地として持っていたことによる。
 また、一六年の上阿久津河岸の旅籠屋は七軒で、そのうち「安泊」といわれる木賃宿は三軒ほどみられた。
 明治時代までいわゆる七河岸例法により、河岸の新設が妨げられてきた阿久津河岸周辺には、維新後河岸の新設が自由に認められるようになる。古来より船着場や土場を持ち、船頭の多い川沿いの村むらでは、いち早く申請を出し官の許可を得て、規則書に準拠して、荷駄・貨客の回漕業務に従事するようになった(『氏家町史下巻』)。五年に氏家河岸が開設され、それと前後して宝積寺村が月馬場の変瀬地に河岸を開き、中阿久津村は座沼を船積場とした。この他にもこの時期に開設された河岸が多く、一時的に発生したが、その後早い時期に廃業や休業してしまったものが多かったといわれる。そうした中で、宝積寺村の回漕店小池太郎平の届書には一五年七月より荷物の運送がなくなったとあり、中阿久津村の野中久兵衛の座沼河岸も、一六年六月には県勧業課に休業届が出された。近隣でその後も残ったのは、押上・氏家・上阿久津河岸だけで、これらも三〇年代で姿を消した。
 
表2 鬼怒川の主要河岸一覧(明治13年)
(単位:軒・艘)
河  岸  名船 問 屋 数運 船 数
 氏家河岸
 上阿久津河岸
 板戸河岸
 道場宿河岸
 石井河岸
 石法寺河岸
 大沼河岸
 1
 1
 2
 3
 3
 1
 1





  3
 10
  28
 131
  44
  33
  53
  17
  25
  28
 131
  44
  33
  53
  20
  35

注1 運船数のうち(大)は5間以上、(小)は5間以下の船を指す。
 2 上表は、船数20艘以上の河岸を示す。
       『栃木県治提要』より作成、『栃木県史』通史編7近現代二より抜粋
 
表3 上阿久津河岸の取扱い主要品目(明治16年)
移 出 の 部 (%)移 入 の 部 (%)
 ①薪炭24.9 ②米22.1 ③木材14.9
 ④葉煙草12.6 ⑤煙草12.5 ⑥陶器6.3
 ⑦漆器3.5 ⑧下駄1.5 ⑨薬種1.3
 ⑩漆0.3 ⑪雑穀0.1
 ①石油31.5 ②塩27.1 ③呉服・太物11.9
 ④塩鮭11.7 ⑤砂糖10.6 ⑥鯡4.1
 ⑦琉玖2.4 ⑧鉄物0.4 ⑨綿0.3
11品合計 100.0% (763,186貫)9品合計100.0% (658,986貫)

注 移入の部にはその他に荷車63両がみられた。品目の割合(%)は重量比を示す。
     「鉄道省文書」より作成、『栃木県史』通史編7近現代二より引用
 

図4 上阿久津付近を遡行する小鵜飼船(ミュージアム氏家提供)