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平田郵便局から宝積寺郵便局へ

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 現在の高根沢町域の村々を含む上阿久津郵便御用取扱所は明治五年七月一日に設置された。陸上交通と河川交通の要である上阿久津河岸の河岸問屋若目田健次郎宅に置かれた。
 その後の逓送に関する業務は、戸長の永倉半次郎が戸長役場第四事務所において処理しており、一二年に彼が依願退職し、引続き永倉弥平が六等郵便取扱役に任ぜられ、一九年五月には三等郵便局に昇格している。一六年の上阿久津郵便局の集配区は、上阿久津・中阿久津・石末・宝積寺・大谷の五か村で三里三四町内外に限られていた(『氏家町史』下巻)。また、八年から一〇年の書状の取扱高を見ると一万通前後を推移している。こうして、取扱役が若目田健次郎・永倉半次郎・永倉弥平と引き継がれたが、永倉弥平は二一年四月に取扱役を辞職し、業務を氏家郵便局へ引渡し閉局した。しかし、郵便貯金業務は上阿久津郵便貯金所として、引き続き行われた(「下野新聞」明治二一年四月二五日)。
 平田郵便局は三〇年五月に開局し、集配区は太田・桑窪・亀梨・文挾・飯室・伏久・栗ヶ島・西高谷・花岡の九か村であった。局長は、三等郵便局長として鈴木昌司か任命された。しかし、東北線の路線変更による宝積寺駅の開業により、交通運輸の中心地として人口も急増する宝積寺へ郵便局は移ることとなった。そして、三七年一二月一九日をもって平田郵便局は廃局となり、宝積寺郵便局が開局され、郵便・為替・貯金事務の取扱いが開始された。当初は既存の建物を利用しての局舎であったようで、四三年一二月局舎が新築されている。その後、さらに昭和一三年と五四年に局舎は新築移転された。その間、簡易保険事務が大正五年一〇月に、郵便年金事務が一五年一〇月に開始された。電話交換事務は合理化により昭和四五年一一月二七日をもって廃止された。
 熟田郵便局は、大正一二年以降郵便集配局とする旨の陳情を逓信大臣宛に出している。熟田郵便局は、大正一一年一一月一日に開局したが無集配局であるために集配の遅延をきたしていた。それは、付近一帯の集配が、氏家・宝積寺・喜連川の各郵便局に分かれているとともに、烏山線仁井田駅の開業以来数年もたたないうちに、米・雑穀・肥料類の集散地として急速な発展を遂げ、店舗の数が増加し、戸数も二〇〇戸に達していたからである。農村部における商業の中心地であるにもかかわらず、無集配局であるため郵便物が遅延するとして、熟田郵便局を集配局とすることが陳情されたのである。そして、大正一二年六月以降五回にわたり熟田村長・北高根沢村長らによる同じ趣旨の陳情書が再三提出されていた。希望する集配区域は、氏家郵便局集配区域である熟田村の鍛冶ケ沢・挾間田・柿木沢・文挾・飯室・伏久と、宝積寺郵便局集配区域の北高根沢村の平田・花岡・亀梨・上柏崎・中柏崎・下柏崎・桑窪・太田と、喜連川郵便局集配区域である荒川村の内、鴻野山・福岡・八ケ代であった。しかし、昭和二年八月六日付の回答は、熟田郵便局を集配局とすれば一村を二局の受持ちとすることとなり、かえって郵便物の遅延を生じるとの考え方により、却下された。
 現在、高根沢町には普通郵便局としての宝積寺郵便局と特定郵便局である熟田郵便局(大正一一年一一月一日開局)・北高根沢郵便局(昭和一三年一月二一日開局)がある。さらに簡易郵便局としては、上高根沢・柏崎・亀梨・宝積寺中台の四地区にある。

図7 昭和30年代の平田郵便局の局舎(太田 藤田潔提供)


図8 平田郵便局の郵便袋(平田 鈴木順家蔵)