日本にはじめて蒸気車がもたらされるのは、嘉永六年(一八五三)であり、長崎に入港したロシア使節のプチャーチンにより模型蒸気車が伝えられた。翌年嘉永七年には、アメリカ使節ペリーが、前年の浦賀における開港通商に対する回答を求めて東京湾に入港した。このとき、アメリカ大統領から将軍への献上品の中に、実物の四分の一の大きさの蒸気車の模型があった。模型と言えども軌道の上を走る蒸気車で、それを見た日本人は、驚きの目で眺めたことは言うまでもない。
維新後間もない明治二年(一八六九)一一月一〇日(太陽暦一二月一二日)、明治政府はイギリスの協力で鉄道建設を決定した。その内容は、東京―京都―大阪―兵庫に至る中山道経由の幹線と、東京―横浜間・琵琶湖―敦賀港に至る支線の敷設であった。しかし、国内外の情勢が不安定な中で、西郷隆盛・黒田清隆らが国防優先の立場から反対を唱えた。また、民間の運送業者からも鉄道に対しては反対の声が多かった。その中にあって、岩倉具視・伊藤博文・大隈重信・木戸孝允らは鉄道の重要性を認識し鉄道敷設に力を注いだ。鉄道建設は翌三年三月に東京―横浜間の工事から開始された。工事に際しては民部省内に鉄道掛が置かれ、監督に上野景範が任命され、建築師長にイギリス人土木技師のエドモンド・モレルが就任した。国内でまかなえる木材・石材以外のレール・車両・鉄材・セメントなどはすべてイギリスから輸入された。四年八月には川崎―横浜間の路線が敷設され、その年の一〇月に出発した岩倉具視らの遣欧使節団は開業前にこの汽車に乗り、横浜から船出したといわれる。そして、五年五月七日品川―横浜間が仮開業し、開業式は明治天皇臨席のもと、九月一二日に挙行された。当初は一日二往復で、運賃は片道上等一円五〇銭・中等一円・下等五〇銭で、当時としてはかなりの高額であった。