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東北線の計画と日本鉄道会社

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 東北地方への鉄道計画は明治時代の当初から官民の双方から建議が出された。まず、明治二年一〇月に外務省により東京―大阪間・東京―陸奥(青森)間の鉄道建設の建議が太政官に提出された。一方、翌年には、京都の医師谷暘卿が東京―福島間及び東京―上田間に鉄道建設の建議書を政府に提出している。さらに翌年の四年、横浜の高島嘉右衛門が「陸奥青森マデ鉄道築造ノ儀」を政府に提出、翌年にも同じく「東京ヨリ青森マデ鉄道建議書」を工部省に出すとともに、政府高官や華族に対して精力的に働きかけを行った。
 その後、多くの人によって鉄道建設が計画されたが、一四年に入ると岩倉具視を中心として、華族の持つ財力をもとに東京―青森間の鉄道建設が計画され、五月には岩倉具視を筆頭に発起人会が結成され、初めて「日本鉄道会社」の名が明らかにされた。創立委員池田章成ほか四六三名の連署で「鉄道会社創立願書」が出された。この中で鉄道の公益性が強調され、欧米諸国にならい政府の特段の援助を願い出ている。その条件としては、官有地の無償払下げや民有地に対しても政府の買上げのうえ会社に払い下げること。また、諸税の免除や利子補給も願い出ている。
 こうして、八月には政府から仮免許状が下付され、翌月発起人総会が開かれ定款が議決され、一一月一一日「日本鉄道会社特許条約書」が下付され、我が国最初の私設鉄道会社「日本鉄道会社」が誕生した。
 定款には、資本金を二、〇〇〇万円とし、東京から青森までの工事において、第一区を東京より高崎を経て前橋まで、第二区を第一区の路線途中より阿久津を経て白河までとした。さらに、第三区は白河より仙台、第四区を仙台より盛岡、そして第五区を盛岡より青森までとして、五区に分けて着手することとした。一二月の株主総会において一八名の理事委員が選出されたが、その中に栃木県矢板出身の矢板武がいた。日本鉄道会社は、近代交通体系の整備と華士族授産事業といった色彩が強く、政府の手厚い保護が加えられ、会社の希望どおり鉄道局による敷設工事の代行、官有地の無償貸与、諸税の免除、利子補給など様々な恩典が与えられた。
 県内においても、鉄道開設派の有志を中心に、藤川為親県令や県内の郡長などが啓蒙活動を展開したが、この時期具体的な路線が決まっていない段階で、表面だった路線誘致運動はほとんど見られなかった(『栃木県史』通史編7・五七八頁)。
 その中で、上阿久津村では早い段階から停車場誘致に積極的に動き、発起人には桧山六三郎、阿久津村の若目田久庫などが率先して当たった。阿久津河岸は鬼怒川上流の最後の河岸として、また奥州街道と連結し多くの荷物・旅客を有するなど、重要な輸送拠点であり、おのずと水運に関係する人も多かった。本来ならこれまでの生業を脅かす鉄道に対しては、反対の姿勢を示すのが普通であり、他の例を見ても宿場町として栄えていた地域では、水陸の運送業者などによる猛烈な反対運動が起こっている。しかし、上阿久津村は逆に停車場誘致を積極的に進め、日本鉄道会社に対する株金募集規約である「鉄道会社積立法約則」を設け、株金の募集を行ったのである。この運動においては、河岸問屋であった若目田久庫に負うところが大きかった。当時彼は東京に寄留し、日本鉄道会社の動向を把握しており、上阿久津村は若目田をパイプ役に日本鉄道会社と接触を図っていった。これは、地元の開明的指導者層が河岸や街道の輸送を通じて、情報を入手しやすい位置にあり、これからの交通体系が鉄道を中心に展開することを察知し、近代という時代を先取りしていったものと思われる。
 当時、鉄道敷設は第一区線として東京―前橋間が計画された。一五年には起点に上野駅が決定し、翌年には上野―熊谷間の工事が完了した。宇都宮方面の第二区線はこの第一区のどの地点から分岐するか問題になった。栃木県では、県南の各郡が一六年一二月に熊谷を起点として、足利―佐野―栃木―鹿沼―宇都宮を経て白河に達する路線敷設を県令三島通庸に提出している。しかし、この段階で、鉄道局は改めて路線問題について検討し、幹線について直線の敷設計画を優先することにし、迂回線の熊谷分岐案は消え、大宮分岐が決定した。こうして、改めて大宮―小山―宇都宮―白河への路線が決定し工事に入った。