宇都宮以北の線路敷設についておおかたの予想は、陸羽街道に洽って敷設されるとみていたが、予想に反して那須野が原を縦断する路線が敷設された。これは一刻も早く青森に到着するといった国策によるもので、直線的な鉄道の敷設が望まれ、宇都宮より直線で北に向かい長久保・矢板を通り那須野が原を北上していった。こうして一九年一〇月一日に宇都宮―那須(西那須野)が開通し、続いて一二月一日には黒磯まで開通した。黒磯から白河までの二五・七キロは急勾配で、この間黒川を五回横断している。多くの悪条件にかかわらず、第二区線の大宮―白河間は二〇年七月一六日に全線開通した。
なお、日本鉄道会社の株主においては、明治三五年の「二百株以上株主氏名表」をみると、政商として名高い岩崎久弥(二万二九八二株)や住友吉左衛門(三、九九四株)・鴻池善右衛門(二、五〇〇株)が名を連ね、旧華族としては徳川義礼(一万七七株)・鍋島直大(八、〇三〇株)・池田章政(五、五七五株)・徳川家達(四、七九一株)の名がみられた。また、明治の元勲や新華族として松方巌(一、二一一株)・西郷従道(九〇七株)など日本の名だたる華士族政商が高額株主として加入する中にあって、高根沢の二大地主である見目清と加藤正信が上位に名を連ねた。見目清は一、九七九株を有し、加藤正信が一、一九四株を持つなど、県内において飛び抜けて多い株を保有していたことは特筆される。なお、他の県内株主では、植竹三右衛門(二九九株)・滝沢喜平治(二八五株)・矢口長右衛門(二〇〇株)などが見られた。
図10 旧路線の跡を残すレンガの橋脚(上河内町東芦沼地内)