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宝積寺殖民株式会社の開発

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 宝積寺駅周辺の開発には、宝積寺殖民株式会社の果たした役割が大きかった。東北線の路線が変更されると、当時の阿久津村長小池与一郎は村の発展と宝積寺台地の開発を目的として、駅の誘致に乗り出した。そして、下宝積寺の有志と相談して「宝積寺駅設置委員会」を組織した。委員会は活発に誘致運動を行うとともに、明治三一年には下宝積寺の地主九名から駅予定地の山林一町三反三畝一五歩を一九三円四二銭で購入し、そのうち一町三反歩を宝積寺駅用地として日本鉄道会社に寄付した。残った三畝一五歩は宝積寺殖民株式会社へ引き継いだ。
 宝積寺駅誘致が成功すると、明治三二年六月に小池は村長を辞任して荒川義全、菊地孝八ら駅設置委員会の仲間を中心に、下宝積寺の有志五〇余名と資本金三、二〇〇円で宝積寺殖民株式会社を設立した。明治四五年に改定された定款によると、本社は阿久津村大字宝積寺九〇番地、営業目的は動産・不動産売買と賃貸、金銭貸付けである。この時点で資本金は二万円(一株二〇円、一、〇〇〇株)に増資されている。会社は設立後すぐに駅予定地周辺の山林を買収して営業を開始したが、土地を売った人々のほとんどは株式を買って株主となり、台地の開発を行う会社に協力するようになった(菊地重雄著『宝積寺殖民株式会社』)。
 会社の土地所有状況の推移は次のようだった。
 
  明治三二年 六町九畝三歩
         内訳 山林 四町七反九畝三歩
            山林 一町三反歩(宝積寺駅敷地)
  明治四五年 四町九畝一歩
         内訳 山林 三町二反五畝二八歩
            畑 二反三歩
            宅地 六反三畝
  大正六年  四町七反五畝一六歩
         内訳 山林 八反五畝一〇歩
            畑  六反二畝一一歩
            宅地 三町三反二畝二一歩
 
 創立当初の山林が次第に宅地に開発され売却されたり、貸し付けられていく状況がわかるが、街づくりはかなり計画的に行われていた。まず宝積寺駅前広場を中心に南北に通じる道幅六間の道路を開削して現在の西町の地域を開発し、さらに駅南で線路から東西に道幅四間の道路を開削して現在の東町の地域を開発した。道路敷地は合計一町歩におよび、当時としては画期的な都市計画であった。道路にそって造成された宅地は一区画三〇坪から八〇坪位で、間口はさまざまだったが、奥行きは西町が一〇間、東町は四~一二間が普通だった。これらの土地は一等地から一〇等地に分けられ、一坪一か月の賃貸料は一等地が一〇銭、四等地が四銭、一〇等地は一銭であった。
 初期会社経営は土地の買い入れと開発が中心だったため、収益はあまり上がらず苦しかった。しかし、市街地が広がり、商業が発展してくるにつれて地価が上がり、賃貸料も値上げされたようで、大正二年一月一八日付の下野新聞には会社と借地人との間で地代の値上げ問題が紛糾していることが報じられている。この頃から賃貸料の増加や土地の売却で利益もあるようになり、経営も順調になった。大正五年には積立金二九四円、利益金一、一七一円七七銭五厘をあげ、一株七〇銭の配当(配当率三分五厘)をしている。
 会社の経営には創立者の小池与一郎が創業以来約二〇年間あたってきたが、大正五年退任して、二代目社長は息子の小池太一郎が継いだが六か月で退任、三代目には定専寺の住職でもあった荒川義全が就任した。しかし、この頃になると賃借人からの土地購入希望が多くなり、新たに土地を買い入れることも困難になってきた。また、賃借料の滞納や値上げをめぐる紛争も多くなって、会社の営業はやりにくくなってきた。こうした事情から、大正七年の定期株主総会で会社所有地の売却が決定され、翌大正八年一二月三〇日の株主総会で会社解散を決定した(菊池・前掲書)。宝積寺駅誘致から駅周辺開発にいたる宝積寺殖民株式会社の事業は、その歴史的使命を終えたといえよう。

図13 阿久津村の第2代村長小池与一郎

          宝積寺の代表として、道路や鉄道を通すため努力