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宝積寺駅周辺の発展

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 宝積寺駅の開設は、それまで他の駅を利用していた物資が、宝積寺駅に流れ込むようになり、周辺地域からの旅客や物資輸送が増加していった。さらに宝積寺殖民株式会社の駅周辺の開発によって、徐々に多くの商店や住宅が軒を連ねるようになった。
 明治四四年ごろの商店をみると、駅の開設後まもなく開業した宝積寺銀行をはじめとして、肥料商としては矢口肥料部出張店・鈴木良一支店・共立合資会社が見られた。穀屋といわれる米穀商は、青木茂八郎商店・鈴木ハル商店・永倉支店・佐藤喜三郎商店・川又政五郎商店とその数は多い。また、運送店も軒を連ね小川運送店・鈴木運送店・内国通運株式会社宝積寺取引店・黒崎運送店などが営業を開始していた。旅館・料理屋も多く、鹿島館・丁子屋・宝石館が見られた。この他呉服屋として相場商店・金田屋商店があり、材木建具商として中野初太郎商店があった。
 大正五年ごろには、この他に二年にできた宝積寺米券倉庫株式会社や小口材木店・石塚材木店が新たに店を開いている。また、丸通となる黒崎運送店と小川運送店、それに山二運送店の駅前に店を構える三店が宝積寺運送業組合を組織していたという。
 さらに、大正末から昭和にかけての東町の商店は、殼屋五軒・肥料屋一軒・呉服屋五軒・洋品屋二軒・小間物屋四軒・材木屋一軒・金物屋一軒、それに料理屋六軒・酒屋八軒ほどあった(吉沢武著『東町の歩み』)。料理屋や酒屋が多いのは、旅客相手ということもあったろうが、米などの集散地として、駅に集まる労働者を相手とするものが多かったものと思われる。特に馬車引きと呼ばれる荷馬車をひいて駅に集まり、運送をして日銭を稼ぐ人たちの溜り場となったのである。こうした光景は他の地方でも新開地や駅周辺で見られたものである。
 この時期になると、生活するための店はひととおりみられ、食料品を扱う魚屋・乾物屋・豆腐屋・菓子屋・お茶屋・牛乳屋・麹屋などが店を開いていた。日用品の店としては、炭屋・雑貨屋・金物屋・たばこ屋・薬屋・荒物屋・新聞屋・提灯屋、それに今は見られないランプ屋などがあった。また、道具などを製造しながら店を構える荷鞍屋・籠屋・するす屋・桶屋・鍛冶屋・ふるい屋・金ぐつ屋・下駄屋・土管屋など、今では見られなくなった店が軒を連ねていた。この他にも、家が徐々に多くなると建築関係の大工・ブリキ屋・畳屋などの職種も多くなった。人口の増加にともなって、医者・歯医者も開業し、昭和初期には東町に一〇八戸の家があった(吉沢・前掲書)。

図14 宝積寺駅西町の様子(昭和30年頃)