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栃木県内の人車鉄道の状況

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 人車鉄道は、その名のとおり人力による鉄道で、線路を敷設して、レールの上に六~八人乗りの小さな客車ないしは貨車を乗せ、それを一人ないしは二人の車夫(押夫)により、押すというもので、鉄道の中においても人力を利用した初歩的な鉄道といえる。
 明治後期から末期にかけて成立した人車軌道は、明治二八年(一八九五)に開業した豆相人車軌道(小田原―熱海間)をはじめとして、二三社を数えた。また、人車軌道の事業社数や路線の長さが最高を記録したのは大正元年といわれ、この時北海道一・岩手一・栃木六・千葉三・静岡二の合計一三社であった。このように、人車軌道が多い地域は東日本であり、関東以北に集中しているのが特徴である。
 その中でも、栃木県は全体を通して全国の約三分の一を占めるなど、人車鉄道が発達した地域であった。栃木県内においては、宇都宮石材軌道(宇都宮軌道運輸)が明治三〇年(一八九七)に開業し、材木町―荒針間・宝木―新里間・西原町―徳次良間・西原町―鶴田間の四路線を持ち、大谷石・新里石の輸送を目的とした。また野州人車鉄道が三二年開業し、同じ年に開業した乙女人車鉄道は間々田―乙女河岸間の約二・三キロを結び思川の砂利を間々田駅に運搬するものであった。鍋山人車鉄道は三三年に開業し、岩船石の切り出しに使われた。同じ年に石灰の輸送を主な目的とする岩舟人車鉄道が開通する。今まで、石材や石灰の運搬用として産業面での使われ方をした人車軌道であるのに対して、三五年に開業した喜連川人車軌道及び四一年に開業した那須人車軌道は、それぞれ東北本線氏家駅より喜連川町、西那須野駅より大田原町へ通ずるもので、旅客の輸送を目的とするものであった。
 このように、栃木県においては那須人車軌道を除いて、明治三〇年代前半に集中して開業されており、宝積寺人車鉄道もこの時期に計画されていた。

図15 喜連川人車軌道(渡辺清著「百姓絵日記」明治40年8月27日 渡辺弘蔵写真提供 ミュージアム氏家)