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宝積寺人車鉄道の計画

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 東北線の路線変更により、明治三二年(一八九九)宝積寺駅が開業された。幹線としての東北線に鉄道をつなげることは、地域の発展に不可欠なものであった。
 東北線は、当初橋梁工事の遅れや運転本数の少なさから、鉄道への認識は低かったが、整備が進むにつれて鉄道への関心が高まり、投資先としても有効であることが認識され始めた。一方、近世において、城下町や宿場町として栄えていた地域は、東北線の開通により、駅を中心とした輸送体制の変化を感じ取っていた。特に鉄道から離れた地域は危機意識を持ち、東北線に鉄道をつなげることを積極的に進めるのである。宝積寺駅が開業された翌年の明治三三年一〇月四日付の「下野新聞」に宝積寺人車鉄道敷設計画の記事が掲載された。
 
   芳賀郡北部の有志黒崎舜三郎、斎藤孝平、町田久一郎、松田勤一郎、氷室新右衛門、岡田泉次郎、黒崎元一郎の諸氏及び塩谷郡北高根沢の有志宇津権右衛門、阿久津金次郎、赤羽宥松、阿久津徳重の諸氏発起となり、日本鉄道東北線宝積寺より塩谷郡北高根沢及芳賀郡南高根沢を経て同郡祖母ケ井に達するの人車鉄道を布設せんと計画し(略)(史料編Ⅲ・九三七頁)、
 
とあり、宝積寺駅より芳賀郡祖母井までの人車鉄道が計画された。
 その年の一二月には「宝積寺人車鉄道株式会社仮定款」(史料編Ⅲ・九三七頁)が作成される。この内容を見ると、まず会社は株式会社組織とし、社名を「宝積寺人車鉄道株式会社」と称した。路線は「下野国塩谷郡阿久津村宝積寺停車場と同芳賀郡祖母井村」間とし、本社を「塩谷郡阿久津村大字宝積寺九十番地」とした。また、資本金額を七万円とし、これを一、四〇〇株に分け、一株五〇円として株主を募集した。なお、営業内容は貨物と旅客の運送を目的とするものであった。
 さて、宝積寺人車鉄道の創立委員(発起人)は「宝積寺人車鉄道株式申込書」(史料編Ⅲ・九三七頁)によると総勢一七名のうち北高根沢村六名・阿久津村二名、そして南高根沢村八名・祖母井村一名という構成で、北高根沢村六名のうち五名は大字上高根沢の大地主、南高根沢村の八名は大字下高根沢村の地主たちで、この二つの地区は地続の穀倉地帯である。史料の制約から確かなことは言えないが、その意味するところは、一つはもちろん祖母井から宝積寺駅への旅客・貨物の運送であり、近世の頃からの芳賀郡の中核的な地域である祖母井の地域活性化と位置付けられる。もう一つは、予定される宝積寺人車鉄道沿線の上高根沢・下高根沢の米の集荷が目的だったのではなかったかと考えられる。東北線の路線変更により、芳賀郡と塩谷郡の境界に近い鬼怒川東岸に宝積寺駅ができたということは、現在の高根沢町から芳賀町にとっては大きな意義があった。それを物資輸送により有効に活用し、地域の発展を図るために宝積寺人車鉄道が計画されたものと思われるのである。

図16 宝積寺人車鉄道の仮定款の表紙(上高根沢 阿久津昌彦家蔵)