ビューア該当ページ

私立銀行の設立と県内の動き

191 ~ 193 / 794ページ
 明治九年(一八七六)の国立銀行条例の改正により、銀行紙幣の金貨との兌換が廃止されるとともに、私立銀行の設立が許可された。これにより、両替商などから転じ、金貸会社の色彩の強い既存の「銀行類似会社」にも銀行と改称するものも現われたが、本格的に私立銀行・銀行類似会社が増加するのは、一二年の国立銀行の設立制限以降である。つまり、国立銀行が九年に五行であったものが一一年には九五行にふくれ上がり、一二年に一五一行の時点で政府は、設立の制限を行い新規の銀行設立を禁止し、以後国立銀行は徐々に減少していく。これに対して、銀行類似会社は一三年の一二〇行から急激に増加し、一九年の七四八行をピークとして、その後減少傾向となり、二六年七月に施行された銀行条例により、一部は私立銀行となったが、他は解散となった。しかし、これは形式的なもので、その後も類似的なものは存在したという(『足利銀行史』)。
 私立銀行については、九年に三井銀行が設立され、以後急激に伸び一六年には二〇七行に達し、国立銀行数を大きく上回った。私立銀行の設立が相次ぐ中で、経営規模の小さい弱小銀行が乱立した。そのため政府は、一五年五月銀行経営の健全化を確保するため、私立銀行の設立許可の権限を大蔵省に統一し、併せて免許制とした。このため約一〇年間の伸びは鈍く、二五年の二七〇行までその数を徐々に伸ばしたにすぎなかった。しかし、銀行条例の施行により、銀行類似会社が解散となることにより、二六年銀行数は一気に六〇六行に跳ね上がった。私立銀行のピークは三四年で、その数は一、八六七行に達した。
 栃木県における最初の私立銀行は、阿蘇郡佐野町に設立された佐野(合本)銀行で一三年に設立された。一〇年代では一五年に設立された葛生銀行とともに、二行だけで、二〇年代に入ると小山銀行(二一年)・小林銀行(二二年)・粟野銀行(二二年)・下野銀行(二四年)・鹿沼銀行(二六年)・栃木銀行(二六年)・栃木農商銀行(二七年)・大田原銀行(二七年)・足利銀行(二八年)・烏山銀行(二八年)・鹿沼商業銀行(二八年)・古河銀行(二八年)・宇都宮銀行(二九年)・壬生銀行(二九年)・今市銀行(二九年)の一五行が開業した。こうした私立銀行開業のラッシュは、三〇年代の前半まで続き、その後は合併・再編を繰り返しながら統合されてゆく。
 
表5 私立銀行、銀行類似会社、国立銀行数と資本金の推移

年  次
私  立  銀  行銀行類似会社国  立  銀  行
行数資本金社数資本金行数資本金
 
明治9年
  10
  11
  12
  13
  14
  15
  16
  17
  18
  19
  20
  22
  23
  24
  25
  26
 
 1
 1
 1
 10
 39
 90
176
207
214
218
220
221
218
217
252
270
606
  千円
 2,000
 2,000
 2,000
 3,290
 6,280
10,447
17,152
20,487
19,421
18,758
17,959
18,896
17,472
18,976
19,796
22,856
31,030
 




120
369
438
573
741
744
748
741
695
702
678
680
  千円
 -
 -
 -
 -
 1,211
 5,894
 7,958
12,071
15,142
15,397
15,391
15,117
14,421
14,512
13,827
13,944
  -
 
 5
 26
 95
151
151
148
143
141
140
139
136
136
134
134
134
133
133
  千円
 2,350
22,986
33,596
40,616
43,041
43,886
44,206
44,386
44,536
44,456
44,416
45,838
47,681
48,644
48,701
48,325
48,416

『日本帝国統計年鑑』、『足利銀行史』より