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宝積寺銀行の設立と合併

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 宝積寺銀行は、その前身を日光合益株式会社と称し、明治三三年二月七日に設立されているが、銀行類似の業務を行っていたと思われる。三九年二月に日光合益銀行と改称し、同時に経営者も交代した。しかし、数日後本店を阿久津村宝積寺九〇番地に移転し宝積寺銀行となった。この時の経営陣をみると、取締役頭取に矢口縫太郎(二代目長右衛門)が就任し、取締役に阿久津金次郎・宇津権右衛門・鈴木良一・見目清(二代目)・加藤正信・青木六郎がなり、監査役に阿久津徳重・宇津赳臓・青木仁平が名を連ねた。彼等は、阿久津村や北高根沢村を代表する地主であり、米穀商・肥料商であった。
 宝積寺銀行は、開業後支店を各地に開設し、三九年祖母井支店・四〇年宇都宮支店・四一年高根沢出張所・大正八年東支店・九年徳次郎支店と四支店一出張所を設けた。こうした宇都宮への支店展開が、喜連川興業銀行との合併による本店を宇都宮に置く下野実業銀行の設立の布石となったものと思われる。なお、宇都宮支店は大正元年に従来の大工町の向かい側に六四坪の木造瓦葺きの支店を改築している。資本金は当初二〇万円とし、大正九年一〇〇万円に増資した。払込資本金も開業当初の七万二五〇〇円から七年には二〇万円とし、増資の際には七〇万円まで伸ばした。預金・貸出金の伸びは順調で、当初の預金が三万円台であったものが、大正二年に三三万円台となり、七年には第一次世界大戦の好景気に支えられ一二二万円台まで跳ね上がり、九年には一七六万円台に達した。貸出金についても当初の一四万円台から二年には五三万円台、七年に一三一万円台、九年には二六七万円台まで上昇した。これにしたがい、利益金も当初の約四、〇〇〇円から二年の一万二〇〇〇円、七年の約一万九〇〇〇円、九年には約六万四〇〇〇円と大幅な伸びを示した(史料編Ⅲ・九七二頁)。
 そして、一〇年二月一日喜連川興業銀行と合併し下野実業銀行を設立して、解散となるのである。これは、九年の戦後恐慌により、弱小銀行の休業・破綻が相次ぐ中で、政府の積極的な指導が背景にあった合併であった。そして、一四年、県の指導による下野中央銀行への大同合併とつながるのである。
 宝積寺銀行と合併する喜連川興業銀行は、当初南摩興業銀行と称し、明治三三年に設立されたが、大正二年一二月喜連川興業銀行と改称し、本店も喜連川町に移転した。改称・移転に伴い経営陣も交代し、役員は主に地主を中心に構成された。
 喜連川興業銀行と改称されて、資本金も一気に三〇万円まで引き上げられたが、宝積寺銀行に比べて預金で四分の一、貸出金で三分の一、そして利益金で二分の一と利益率は良いものの、規模自体はやや小さなものであった。そのためか一〇年の合併により下野実業銀行が誕生すると、頭取に宝積寺銀行の取締役であった見目清が就任し、以下それぞれの役員が取締役・監査役となった。
 下野実業銀行は、宇都宮へ進出し本店を大工町に構えた。設立時の資本金は二〇〇万円であった。支店数も一二行(宝積寺・喜連川・氏家・祖母井・高根沢・東町・徳次郎・江川・日野町・大宮・中里・今泉)(「第四期営業報告書」大正一一年下半期)にまで広げ、一一年には氏家銀行を合併するなど、積極的な経営がなされたが、一四年の下野中央銀行の設立に参加したため、四年間という短い存続期間であった。

図18 宝積寺銀行の当座預金通帳(栗ヶ島 渡辺章一家蔵)