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米産地と肥料商

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 鬼怒川の東側地域、すなわち氏家町・高根沢町・芳賀町一帯は、近世から米の生産地として知られており、上阿久津河岸は米の輸送拠点として栄えていた。近代に入ると陸羽街道などの幹線道路が整備されて、輸送体系も変化してきた。
 最も大きな変化は、鉄道の敷設による駅の開業であった。東北線が明治一八年に開通するが、この時点で宇都宮駅からの路線は鬼怒川の西側を通過し、さらには橋梁工事の遅れや運転本数の少なさや高額な運賃などで、物珍しさによる人気はあったものの、輸送手段として一般化するまでには至らなかった。
 しかし、西鬼怒川周辺のたび重なる水害により、日本鉄道会社は鬼怒川東岸に路線を変更し、氏家駅に続いて宝積寺駅が三二年に開業した。この時期には、東北線の輸送力が増強され、輸送手段として河川や道路に比べて優位に立った。このことは、駅の存在をクローズアップさせ、駅が地域の中心へと変化していくのである。
 宝積寺駅においては、周辺の米の生産地との関わりで、肥料商を筆頭に米穀商・運送業といった、米を中心とした商業の集積が見られた。明治四四年時点で駅前及び東町には、肥料商として矢口肥料部・鈴木良一支店・共立会社が設立され、米穀商としては川又政五郎・永倉支店・佐藤喜三郎・鈴木ハル・青木茂太郎がそれぞれ店を構えた。大正二年には宝積寺米券倉庫株式会社・宝積寺倉庫株式会社が設立された。なお、北高根沢村には高根沢肥料株式会社が明治四〇年に開業した。
 宝積寺合資会社は、明治三三年五月に阿久津村宝積寺に設立され、商品の委託販売・金円貸付・貨物の保管及び運送を営業目的とした。社長に北高根沢村中柏崎の矢口縫太郎が就任し、社員は北高根沢村から宇津権右衛門・阿久津徳重・鈴木良一など一三名、阿久津村から見目嘉一郎ら三名で構成された。それぞれの社員の出資により資本金を三万円とした。開業式は、五月一二日同社にて行われ、矢板武下野銀行頭取・近藤彦三郎宝積寺駅長の祝辞などのあと、宝積寺合資会社を代表して矢口社長より答辞が述べられ、式は終了した(史料編Ⅲ・九八二頁)。祝辞の中で下野銀行頭取の矢板武が述べているように、日本鉄道会社が東北線の路線を変更し、宝積寺駅が開業した翌年に開業するという素早さと先見性が見られた。矢板がいう「商いの法」は地の利と人の和を要するうえで、同社はこの二つを有するといったが、宝積寺駅周辺はまさに「地の利」としては、申し分のないところであった。
 高根沢肥料株式会社は、明治四〇年三月株式会社として発足し北高根沢村大字上高根沢に本社を構えた。営業内容は「肥料売買及び金銭貸付物品委託販売並びに債務弁償のため、引渡しを受けたる動産不動産の売買」であった。
 この会社の前身は高根沢肥料合資会社で、明治三二年に設立したようで、宝積寺駅開業と時期を同じくしている。二二名の社員が一万円を出資し、経営に当たったが、理事長は阿久津金次郎で、これは株式会社へ移行してからも継続された。明治三八年下半期第一四回営業報告において、同年は近年にない凶作となり、平年の半収という状況の中で、肥料の販売高は少なく回収金もわずかで、純益金は七一円にとどまったと、日露戦争後の営業状況を述べている。
 役員には取締役社長に阿久津金次郎・専務取締役に赤羽太八郎以下、取締役六名(佐間田藤十郎・小堀勝造・磯勝二郎・見目清平・赤羽市三郎)、監査役三名(岡田祐・磯荘三郎・川俣諭助)が選出され、三月二五日肥料販売の免許願いを提出し、五月一五日付けで免許証が下付された。開業式は、四月三日に行われ、営業が開始された。
 資本金は三万円で、阿久津金次郎(二二二株)・赤羽太八郎(一〇〇株)・宇津権右衛門(五〇株)など二一名の株主により一株五〇円の株券で六〇〇株であった。開業当初の四〇年上半期の第一回営業報告では、この時期米価が徐々に高騰し始めたが、肥料類は著しい価格の変動がなく、人気があり先を争って購入すると言った状況で、併せて麦作・養蚕も良好で、貸金の利子の回収も順調であった。これにより、上半期の純益は約四八一円と好調な出だしを見せた。その後も第二期に六〇五円、第三期は五〇二円という数字で推移し、第八期の大正八年上半期では、純益金は六六三円とほぼ横ばいで、この時には社長が阿久津金次郎から宇津赳造へと交代した。また、株主関係では、六〇〇株のうち宇津権右衞門が四九〇株を有し、宇津姓の五人で五六〇株と九三パーセントを占めていた。この状況は大正期まで続いた。また、経営的には大正期に入っても、八年上半期の純益が一、〇二二円と一、〇〇〇円台に載ったものの、他の年は五〇〇円前後で推移した(高根沢肥料株式会社「営業報告」)。
 その後、大正から昭和期にかけて個人的な肥料店を会社組織に変更するようになり、大正九年に鈴木良一により株式会社鈴木商店が誕生し、昭和期に入ると三年には北高根沢村の加藤正信により株式会社加藤肥料店が設立され、六年には熟田村の塚原知治による合資会社塚原商店が開業するなど地主の経営する肥料会社が増えてきた。
 合資会社塚原商店は、六年二月一三日に肥料営業の許可を受け二〇日に設立し、各種肥料と米麦雑穀類の販売を目的とした。本店を地元の熟田村伏久に置き、支店を宝積寺駅近くに置いた。出資金は九、〇〇〇円で、社員には芳賀郡祖母井の黒崎唯三郎が入っていたものの有限責任で、あとは無限責任として塚原一族が占めていた。
 
表6 会社一覧(大正5年)
名        称所在町村設立年月会社目的資本金又は出資額積立金利益金株式会社配当
総 額払込額金  額配当率
 宝積寺銀行 阿久津村 明治33年2月 銀行業200,000132,0002,00016,00111,880.090
 高根沢肥料株式会社 北高根沢村 明治40年3月 肥料販売 30,000 24,000 600 1,400  720.030
 宝積寺米券倉庫株式会社 阿久津村 大正2年7月 米券保管
 金融受託
 30,000 7,500 310 1,119  375.050
 宝積寺殖民株式会社 阿久津村 明治32年8月 土地貸付 20,000 20,000 393 1,294  800.040
 宝積寺倉庫株式会社 阿久津村 大正2年7月 米券保管
 金融受託
 15,000 15,000 620 2,078 1,500.100
 宝積寺運送合資会社 阿久津村 大正4年7月 運送業  6,000 6,000  -  74  - -

名        称所在町村設立年月主たる業務出資額又は
資本金(円)
代表者の氏名
 株式会社 鈴木商店
 株式会社 大丸屋呉服店
 中野製材所
 株式会社 加藤肥料店
 合資会社 塚原商店
 合資会社 集清堂書店
 青木農場
 山興殖産合資会社
 合資会社 鬼怒川養魚場
 阿久津村
 阿久津村
 阿久津村
 北高根沢村
 熟田村
 阿久津村
 熟田村
 熟田村
 阿久津村
 大正9年11月
 大正12年1月
 大正13年1月
 昭和3年4月
 昭和5年12月
 昭和6年7月
 昭和9年7月
 昭和10年12月
 昭和12年8月
 肥料売買
 呉服太物販売
 製材及賃挽業
 肥料販売
 内外各種肥料販売
 書籍販売業
 農耕業
 不動産の売買金融
 養魚販売業
120,000
 10,000
 4,000
200,000
20,000
  600
25,000
 5,000
 1,000
 鈴木 良一
 田代為三郎
 中野初太郎
 加藤 正信
 塚原 知治
 菅又 由平
 菊地 福寿
 増形 圭三
 荒木 春美

「栃木県統計書」大正5年 昭和8・10・13年より作成