明治になるとそれまでの権威的な看板だけの薬では通用しなくなり、明治三年の「売薬取締規則」や七年八月の「医制」の公布により、政府は徐々に科学的な立場で売薬の許可を出すようになった。このため宇津救命丸は、そのつど申請書を提出し許可を受けた。これにより、四年六月に「大学東校免許」、七年一二月に「文部省医務局免許」、九年八月に「内務省衛生局免許」を取得して行った。こうした免許は宣伝効果を高める結果となり、販路の拡大とともに、生産量を伸ばしていった。
金匱救命丸の成分と効能を見てみると、九年三月の「売薬検査御願」には、薬材・分量・効能・用法・代価が記されている。それによると、一剤の中にじゃ香七匁・真珠三匁・牛黄七匁・朝鮮人参七匁・犀角三匁・沈香八匁・丁香二匁・熊胆五匁が含まれ、これを糊丸にするとおよそ一万六八〇〇粒ができ、それを金箔四四〇片に包み、二四粒を一包とすると九〇二包となる。服用量は大人四・五粒、小児二・三粒を白湯にて服すとした。効能は、第一に急病・気付に効き、疱瘡(天然痘)および発熱・麻疹・労症(労咳―肺病)・癇病(幼児の病気―かんのやまい)・気鬱(気分が沈みふさぐ病気)、また諸毒にあたったときに効果があるとされた。江戸期の能書(薬の効能書)に記されている効能は、万病の薬として位置付けられていたが、明治期に入ると薬学的な見地から許可を出すことにより、効能はある程度限定されたものになってくるとともに、服用の仕方や分量も記されるようになる。
定価は、一包二五銭であり、これは一粒当たり約一銭となり、他の常備薬に対してやや高いものであった。なお、宇津家では金匱救命丸のほか一角牛黄丸、延寿清心散も併せて製造されていた(史料編Ⅲ・九九七頁)。
製造量については、全体を把握する史料がないが、一七年の一月から五月までの約五か月分を見ると、二〇銭売り四、七六八包・一〇銭売り一万五九一三包・五銭売り七万六四九〇包が製造されており、これに対する売上げ量は、二〇銭売り四、七一六包・一〇銭売り一万五八六六包・五銭売り七万六二九〇包と、ほぼ製造した分を売りさばいていることがわかる。
時代が戻るが六年の各取次所の売上高のうち、東京神田旅籠町の澤田源衛門は三年から五年の間に一〇万五〇〇〇粒を売り上げ、平均一年間で三万五〇〇〇粒・一、四六〇包を販売している。同じく神田平河町の郡司平六は四一万粒を売り上げているなど、全国に常備薬としての地位を確立していった。
なお、二二年の第三回内国勧業博覧会において、宇津権右衛門は金匱救命丸・一角牛黄丸・延寿清心散の三種類を出品している。
図21 金匱救命丸の免許(亀梨 鈴木重良家蔵)