明治期に入ると、この江戸期の商圏を母体としてさらに拡大して行く。ただ、近畿地方や中国地方東側の地域に対しては、遠距離であることの効率の悪さからであろうか、近代に入ると取次所を廃止し、もっぱら中部地方から東の地域を対象としている。さらに、江戸期において東北といっても中南部までであった商圏が、明治期には東北北部から、北海道へと商圏を拡大しているのが特徴として見られる。これは、鉄道の敷設と密接な関係があるものと思われる。つまり、店員による巡回販売はより効率的により早く回ることが重視され、鉄道のあるところは必ずといって良いほど乗車して巡回販売を行っている。
巡回日誌については、江戸期より多くが残っているといわれるが、同じ年で同時に巡回路の記録が残っているのは珍しく、明治三六年の分には五つの巡回路の記録が残されている。この記録を丹念に調べた「史料館報」第一一号~第一五号の史料よりみると、巡回路は五つに分かれ、本県下東北西部・常総口・奥州東北口・奥州西北口・上信武越の五ルートであった。
なお、一五年四月に宇津救命丸は、「救命丸巡売人廃止ノ儀ニ付緒言」(史料編Ⅲ・一〇〇〇頁)を全国の取次所に送っている。これは、当時巡回販売による金匱救命丸の類似品が多く出回ったようで、この対策として巡売人による販売を廃止し、注文薬の配送は代金が送られてき次第通運会社を通して行うというものであった。代金も郵便局の郵便振替にて行うか、銀行を通して行うという形態をとった。その後の経過は定かではないが、一時期の類似品対策として行っただけで、その後も巡回日誌が見られるので、巡回による販売は継続された。
図22 売薬請売の願書(亀梨 鈴木重良家蔵)