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宇塚家による救命丸

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 大字上高根沢には近世から明治一〇年代まで宇塚家による金匱救命丸の製造・販売も行われていた。
 明治七年一二月二日付けの県令宛の届書には、第三大区一小区塩谷郡上高根沢村の宇塚五郎より金匱救命丸の製造・販売に関する免許状の下付願いが出された。この中で金匱救命丸は江戸期において毎年嵯峨御所より免許をいただき、売薬販売をして来たという。こうした、権威付けもしだいに、科学的に裏打ちされたものにのみ免許状が下付されるようになり、宇塚家による金匱救命丸も薬味・分量・効能・用法・代価等を明記して出願されるようになった。
 また、商圏の大部分は東は那珂川、西は鬼怒川、北は烏山線、南は祖母井の中に限られ、高根沢から茂木町にかけての栃木県の東半分の地域にあたり、これが約七割を占めた。その他県内では黒羽・大田原・益子・真岡・足利・栃木・日光などの主要都市、さらに福島県から関東全域、つまり福島県の会津・棚倉・相馬や茨城県の水戸・笠間・結城・下館、そして東京といった地方に広がっていた。関東一円に広がりをみせてはいたが、宇津家の金匱救命丸とは格段の商圏の狭さであり、明治一〇年代以降衰退の一途をたどるのである(大町雅美著『家伝薬「救命丸」の研究』)。
 なお、この他に北高根沢村亀梨の山口日観が「眼之薬」の売薬営業を行っていた。これは一四年八月に営業許可が下り、以後二回の営業鑑札の書替え願いが出されているが、その中で目薬としての効能が記され、三匁五分の目方で一〇銭の定価が付けられていた。