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徴兵令

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 明治四年(一八七一)二月政府は薩摩、長州・土佐の藩兵約一万人で政府直割の親兵を創設して、七月に廃藩置県を断行した。ついで八月には旧藩常備兵を召集して、全国に四つの鎮台を置き、治安の維持と国防に備えた。さらに、政府は従来の藩兵とは関係を断ち、明治六年、全国募集兵による国民皆兵の理念に立った軍隊を創設するため徴兵令を発した。この徴兵令は旧武士の力ではなく、維新変革の原動力となった庶民のエネルギーの結集が期待された(大石慎三郎著「徴兵制と家」『歴史学研究』一九四号)。
 徴兵に当たって陸軍大輔山県狂介(有朋)は明治六年一月一〇日付で宇都宮県に徴兵使が巡遣されるまでに当年二〇歳のものを調査し、徴兵規則に照らし高一、五〇〇石に付き一人見当で精選し、徴兵使巡行の際までに召集しておくように指令していた。宇都宮県は石高四一万余石の関係で二七三人が、栃木県では石高五二万余で三四六人の徴兵人数が定められた。このように当時の徴兵人数は徴兵適齢期の青年(壮丁)の数でなく、石高で決定された。
 召集される者は身体強健で五尺(一メートル五二センチ)以上で兵役に堪うる者で、そのうち戸主、独り子、老父母などがいる者を除外し、支障のない者を戸長が栃木県参事藤川為親宛に提出している。次いで栃木県は徴集したものがどの鎮台に入営させるかを山県陸軍中将に伺い出ている(『栃木県史』史料編近現代二・三六四頁)。
 宇都宮営処へ入営の者は当所陸軍練兵場西側に、佐倉営舎主管出張所を集合所と定め同所へ来る三月二九日午後三時までに遅滞のないよう届け出で出張官員の指揮をうけるようになっている(氏家町 ミュージアム氏家所蔵 永倉家文書)。
 「徴兵編成並概略」によれば二〇歳に達した者を徴集し、陸軍は常備軍と後備軍、国民軍とし、それを、砲兵、騎兵、歩兵、工兵、輜重兵に分けた。常備軍は「三ケ年ノ役ヲ帯ハシム」とし、その後、後備軍に編成する。彼らは帰郷して仕事に従事する。後備軍は第一・第二後備軍となり第一後備軍は二か年その役を帯び、戦時には直ちに召集されて常備軍に加わるとなっている。第二後備軍は第一後備軍のあと二か年の役をつとめるとなっている。さらに国民軍は常備、後備のほかに男子一七歳より四〇歳までの者を兵籍におき「全国大挙ノ役アルニ方リ、均シク隊位ヲ編成シ、以テ管内ノ守備ニ供スル者ナリ」としている。前高谷村の小池粂吉、宝積寺村の斎藤幸次郎は明治八年三月時点で後備軍として編入されていた。