「徴兵編成並概則」には後備軍について常備軍の兵役終了後「常ニ家居シ、産業ヲ営マシム」とある。これにしたがって「後備軍兵卒在郷中心得」がある。それによると次のようなことが記されている。
後備軍 常備軍同様国家ノ藩屏デ万民安堵ノ為ニ設置サル義ニ付、此兵員タル者ハ忠誠ヲ本トシ……又在郷中ハ誠実ヲ旨トシ、沈着寂寥トシテ常ニ能ク国権ニ循行シ、県庁ノ命令ニ服従スベシ、区戸長ニ向テハ言行方正ニシテ礼讓ヲ欠カサズ、能ク恭礼ヲ尽シ同輩ニ対シテハ混和戮力ヲ専ラトスベシ、苟且ニモ陸軍ノ兵権ヲ以テ傲慢無礼ノ振舞アルヘカラズ、総テ帰郷ノ節、説諭スル件々堅ク相心得、後備軍ノ名誉ヲ落サザル事ヲ第一トス(花岡 鈴木徳家文書)
として、以下一九条の心得を掲示している。第二後備軍に服役中でも何かにつけ自由はなく、例えば自己の管内を出る時は出入ならびにその行先まで詳細に鎮台へ届け出るようになっている。特に注目されるのは最終条の一九条で後備軍が郷里にある時は、その身は地方官に委任され、また自区戸長の指令するところは県令、上朝廷の命を奉ずるとしていることである。
栃木県にあっては栃木県後備軍附陸軍曹長香坂昌猷の名で後備軍兵卒に陸軍卿よりの御達書一通、戦友簿一通、兵卒心得書一通を至急順達されるように一一月三一日に宝積寺村の斎藤幸次郎に送っている。
戦友簿は第一戦友から第二七戦友になっており、大小区制の小区に一名から二名が記されている。高根沢町域は第三戦友に入っており、次の二名が記されている。
第三戦友
前高谷村 第三大区一小区 小池粂吉
宝積寺村 同 区 斎藤幸次郎
彼らは第三大区一小区二四か村宿を代表していた。
第一後備軍は戦時にあっては直ちに召集されて常備軍に加わるとなっており、明治一〇年の西南戦争に斉藤幸次郎は参加している。