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西南戦争と斎藤幸次郎

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 岩倉使節団が外国視察から帰国して間もなく征韓論問題で西郷隆盛一派は野に下った。このころ士族は政府に反抗し各地で反乱を起こし、地租改正反対運動ともからみ反政府運動が高まっていた。明治九年から一〇年はじめ天下はまさに騒然としていた。当時、鹿児島では桐野利秋、篠原国幹らが私学校を設け、幼少年を集めて軍事、思想教育を行っていた。政府は明治九年一二月に鹿児島県出身の警察官を帰省させ私学校党をひどく刺激した。
 ここに私学校党は西郷隆盛に決起を懇請した。西郷は挙兵をせまる篠原や桐野らに自分の生命をあずけるとして挙兵にふみきった。ここに西南戦争が勃発した。明治一〇年(一八七七)二月一五日西郷らは鹿児島を出発し熊本に向かった。途中で各地の士族が加わり多い時は約四万二〇〇〇人に達したという。政府は有栖川宮熾仁親王を征討総督に陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義を征討参軍に任じ二月二〇日東京を出発、二六日に福岡に到着、ここを本営とした。征討軍の当初の部隊は徴兵制による常備軍が八割以上を占め、その後、第一後備兵までが投入された。西郷軍は熊本城を包囲し攻撃中に政府の征討軍が熊本城に向かい、田原坂で二〇日間の激戦が続いた。この戦闘で西郷軍は大損害をうけた。熊本城の包囲陣は四月一四日に征討軍によって破られ、戦争は熊本、宮崎県下にひろがり、追いつめられた西郷軍は城山にこもった。征討軍はこれを包囲し総攻撃を加え、西郷隆盛は切腹した。
 後になってこの両者をうたった「抜刀隊の歌」がある。
 
  我は官軍、我敵は、天地容れざる朝敵ぞ
  敵の大将たる者は、古今無双英雄で
  之に従う兵士は 共に慓悍決死の士
  鬼神に愧じぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を(後略)
 
 官軍は西郷軍を敵としながらも西郷をほめ、部下は慓悍決死の士で、鬼神に恥じないほどの勇気はあるとたたえているが、「朝敵」すなわち、天皇への反逆者であるとして、戦いでは自分たちが「正義」であることを主張して、戦意の高揚を図っているとともに明治維新を成就した西郷と大久保利通両者の立場の違いをうたっている。
 この戦争に参加し戦死した中に宝積寺出身の斎藤幸次郎がいる。彼は明治七年一一月二日常備兵歩兵として東京鎮台第二八大隊に入隊、翌八年一月に二等兵卒になった。間もない一月二九日に解かれ第一後備軍服役を命ぜられた。明治九年一月一一日に歩兵第三連隊第三大隊に入営し演習をしていたが三月に演習も済み帰郷した。
 西南戦争の勃発により明治一〇年四月一〇日征討軍団に編入、船で四月一三日に肥後(熊本県)へ、その後鹿児島へ、さらに宮崎県都城へ進撃、七月二七日宮崎県船引村で戦死した。軍隊からの報告には次のように記されている。
 
   栃木県管下下野国塩谷郡宝積寺村平民
   東京鎮台後備歩兵第一大隊第二中隊第二八号
         二等卒
             斎藤 幸次郎
   右、明治十年七月二十八日同州宮崎郡大久保村ニ於、戦闘進撃ノ際
   重傷ヲ負ヒ即死候ニ付鹿児島祇園洲ニ埋葬致候也
      東京鎮台後備歩兵
         第一大隊大隊長
          陸軍少佐 風間【カン】成
  明治十年八月六日
 
栃木県には次のような達しがあった。
 
 別紙、官軍斎藤幸次郎戦死候段、出征第四旅団本領ヨリ報告在之旨ヲ以、東京鎮台ヨリ通知相成候条身元へ可被相達也
       栃木県 第一課
  右御達ニ相成候及御達候也
       第三大区一小区
  十年九月五日    区務所
 
 このように戦死状況とその後の連絡が行われた。いま田原坂の記念碑には西南戦争で戦死した人の名が薩軍、官軍と分けられて名前が記されている。官軍のなかに斎藤幸次郎の名も明瞭に書き記されている(図24参照)。

図24 田原坂激戦の図と戦死者名を刻んだ碑
下段左から8人目に斎藤幸次郎の名がある。(宇都宮市 大町雅美提供)