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徴兵と免除

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 満二〇歳になると国民はすべて徴兵検査を受けねばならなかった。明治一六年当時上阿久津村と宝積寺村の動きをみると、戸長は徴兵検査人名届を郡長に提出している。上阿久津村は中山勘次郎、斎藤兼吉、荻原清三郎、宝積寺村では横田清三郎、阿久津留吉である。彼らはまず徴兵の下検査を受けるため、横田は父の横田清平、阿久津留吉は兄の六造が次のような請書を戸長に提出している。
 
    請書
  氏家宿下検査所へ 塩谷郡宝積寺村
  斎藤方八時出頭    阿久津留吉
  右ノ者義、本月二〇日徴兵下検査トシテ御召喚ニ相成候御達シ、正ニ承知仕候、本日他出仕ラザル候、コレニ依ツテ御請書差シ上ゲ候也
   明治一六年一一月四日
          右兄 阿久津 六造
     永倉半次郎殿
 
 注目することは「他出仕ラズ」と、家出などしないことで請書を提出している。次いで阿久津留吉は明治一七年三月二二日の呼出しに対して、
 
  右大田原宿徴兵御検査所へ出頭相仕義、御達シ正ニ承服仕リ候以上
 
としるし、戸長は六月三〇日に塩谷郡長宛に「御召集ニ付召連レ御届申上候」と入営へと進んでいる。
 徴兵で入営することについて明治一三年時の動きをみると、東京へ行く宝積寺の大沢弥十郎は三月一八日午前七時に、佐倉へ行く上阿久津の野中兵八は三月一七日午前七時までに、宇都宮へ行く中阿久津の見目忠吉は三月二一日午前六時までにそれぞれ第一集合所へ集合することになっている。第一集合所は宇都宮池上町丸屋治平方に設置されていた。入営兵への注意事項には、帰休兵は官給した被服を着用すること、通行免状の記載のしかたについて戸長がとくと注意し間違いのないようにすること、病気、事故で召集に応じられないものは第一集合所に出頭して届けでることが記されていた。ここで明治二〇年度、太田村外一一か村内の上高根沢村の徴兵届出から徴兵割符下附までの過程をみることにする。
 表7の①は各戸で徴兵適齢者を明治二〇年四月一一日までに届け出た一五名の人名である。次いで、徴兵検査として八月一日午前七時までに氏家宿の検査所へ出頭するのに届出をした人名が②である。すなわち①の外に新たに三名が加わっているが、その理由については不明である。しかし①の一五名から二名が徴兵検査を免除されているが二名とも戸主である。検査に行ったものは一六名である。この検査場に出頭する通知には、ただし書きに「失踪或ハ事故届等モ同日時に差し出すべき儀に付、是又御達し相成度し」と、失踪等について届け出るよう記している。現に当時駐在所から太田村戸長役場あてに上高根沢村の阿久津某が点呼召集に応じないので取調べのため明治二〇年五月二〇日正午に大田原宿駐在所に出頭するようとの照会状があった。このうち徴兵割符を下附されたものは③の八名になっている。下附されなかった者の理由は判明しないが、身体上の理由が原因と思われる。

図25 明治18年の徴兵入営の割符(石末 加藤岩夫家蔵)

表7 徴兵届出より徴兵割符下付迄の過程
明20年4月7日7 月10 月
1 長男 小笠原半四郎 小笠原半四郎 小笠原半四郎
2 長男 中 山 兼 松 中 山 兼 松 中 山 兼 松
3 3男 荒 井 宥 造 荒 井 宥 造
4 戸主 池 田 啓一郎
5 2男 近 江 角 二 近 江 角 二
6 3男 鈴 木 源 吉 鈴 木 源 吉 鈴 木 源 吉
7 2男 鈴 木 吉 三 鈴 木 吉 三 鈴 木 吉 三
8 弟  赤 羽 広 平 赤 羽 広 平 赤 羽 広 平
9 長男 小 林 清三郎 小 林 清三郎
10 付  斎 藤 末 吉 斉 藤 末 吉
11 長男 荻 原 勇次郎 荻 原 勇次郎 荻 原 勇次郎
12 戸主 斉 藤 伝 吉
13 養子 野 中 国三郎 野 中 国三郎 野 中 国三郎
14 付  藤 田 源太郎 藤 田 源太郎 藤 田 源太郎
15 2男 斎 藤 仙次郎 斎 藤 仙次郎
16 岩 本 国三郎
17 赤 羽 庄 吉
18 川 上 源次郎

上高根沢 佐間田勝実家文書より