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日清戦争の勃発

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 アジアにおける英露関係の悪化が明確になったのは明治二四年(一八九一)のロシアのシベリア鉄道の建設着工によるといわれている。ロシアのアジア進出によりイギリスは近代国家として成長しつつある日本へ積極的に接近しようとした。明治二七年の日英条約調印はそれを示すものである。
 当時国内にあっては、第六議会開会を目前にして改進党中心の対外強硬派は、自由党の行政整理と経費節減を求める内閣弾劾上奏案に便乗して伊藤内閣を窮地におとしいれた。ここで政府は苦境に立たされ六月二日に議会を解散した。
 おりもおり、議会を解散したその日、朝鮮が、農民反乱(東学党の乱)鎮圧のため清国に援兵を求めたとの報が入ってきた。政府は明治一八年に清国と結んだ天津条約で日本・清国が朝鮮へ出兵する時は相互に事前に通知をするという取決めをもとに即時出兵を決定、六月七日清国に通告し、四、〇〇〇人の軍を漢城(京城)に送った。この機会に我が国は内政改革案を朝鮮政府に提出、七月二三日には朝鮮軍を武装解除し、政権を倒し、海軍は豊島沖で、陸軍は成歓で清国軍を破り、八月一日遂に宣戦を布告した。戦闘は朝鮮にあった第一軍が鴨緑江を越えて清国領内へ、第二軍は遼東半島に上陸、旅順、大連を占領した。さらに二八年二月二日山東半島の威海衛を占領、次いで台湾にも上陸した。
 この間、清国では講和の動きを示し、明治二八年三月二〇日、下関の春帆楼で伊藤博文と李鴻章の会合がもたれ、四月一七日に下関条約が結ばれた。ロシアはこの条約により自国の南下策が挫折するとしてドイツ・フランスと共に日本の遼東半島の返還を勧告した。いわゆる三国干渉である。日本はやむなく五月五日にこれを受諾、講和条約の批准が五月八日、山東半島の芝罘で行われ、日清戦争は終結を迎えた。
 戦争は国内にあって政府と民党という対立状況を否応なしに挙国一致の方向に向けさせていった。開戦後間もなく行われた第四回総選挙(明治二七年九月)を前にして栃木県議会では警察取締法についての問答があった。その中で一議員は「今日は日清間の問題について我が天皇陛下も大御心を煩わせ給う折柄なれば、選挙競争などには沢山さわがないように致したいものである。警察官も今回はとくに注意して余りさわがしくならないように注意されたい」と発言している。選挙のたびに繰り返される激しい対立も第四回総選挙は平穏のうちに終わり、国民の戦争気運の高まるなか急速に戦争への一本化の道を歩みはじめた。戦争は一一月二一日の旅順占領により一応のやま場をこえた。
 桑窪の山崎耕一が従軍中の藤一郎に出した便りに「旅順占領後書状も見えず、寒風とて戦地の次第、彼是心配仕り候」とあり、旅順占領後の動静について心配している様子がうかがえる。この間、郷里の農業、子供、両親への見舞等を知らせる便りをだしている。銃後の人たちの生活は平穏なものではなかった。「余千事万件申シ述ベ度候ト雖トモ戦争ノコト故、長々敷申シ上ゲ兼如何ニ候以上」と、話したいこと、相談したいことも戦争によってすべて断たれていった。