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手紙にみる日清戦争

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 日清戦争に北高根沢村桑窪の山崎藤一郎は在清野戦第一師団歩兵第三連隊第十中隊の一員として参加した(馬頭町 大久保一二家文書)。藤一郎の手紙で日清戦争に従軍した兵士のようすを見てみよう。手紙は明治二八年三月二〇日付のものである。まず、この時期は戦争の状況が大きく変わり、終結の方向に向かっていた。日清戦争は二七年七月朝鮮半島、平壌の戦いで開始され、第一軍は鴨緑江を渡って清国領内に入ったのは一〇月二五日である。一方、黄海海戦で制海権を得た日本は大山巌の第二軍は直接、遼東半島の花園に上陸し、金州をおとし海軍の支援で旅順、大連を相次いで攻略した。当時山県有朋は山海関に上陸して北京攻撃の強行策をねっていたが、列国の干渉を予想し威海衛・台湾へ方向を変えていった。この便りはこの威海衛占領後間もないころである。
 山崎藤一郎の軍は混成第一旅団応援のため二八年二月一二日に冬営地を発し蓋平に向かって進軍普拉店、復州城を経て熊岳を過ぎ二〇日に蓋平に到着した。里程は六〇里(二四〇キロメートル)二四日には太平山の敵兵二万余を撃退、敵は営口に向かって退却した。二五日に大石橋、さらに海城へ進軍した。この行軍は「雪中ヲ浸シテ行進、疲労一層甚シ」と厳しいものであった。ここで連隊は第一軍の命令で海城西部の守備隊に任ぜられたのは三月五日である。ここで歩兵第六連隊と交代し営口攻撃に向かった。敵は営口を去り田庄台に後退したので田庄台攻撃のため遼河を渡り攻撃を加えた。「敵兵退却ヲ始メ、第三連隊ハ逃走兵ニ向ツテ一音射撃尤モ急ナリ、九時三〇分敵兵二万余大旗ヲ翻シ逃走ヲナスハ実ニ爽快ナル見物ナリ」と、五百戸は一朝にして一片の煙と化したという。当時、伝道医師として奉天に在住していたスコットランド人のデュガルド=クリスティは『奉天三十年』(岩波新書)でこの戦いの状況を次のように記している。
 
  人口一万の繁盛な町であったが、今は荒涼たる廃墟となった。まだくすぶって居る家屋があり、冬籠りのための繋船してあった数百の舟も焼けた。街上には戦死者がごろごろして居り、凶暴なやせ犬が死体をあさり歩き貪り食っていた(上巻・一三九頁)。
 
 戦争は余りにもむごいものであった。出征兵の苦労、銃後を守る人の苦労、戦場となった町の余りにも無残な姿はこのような状況からもうかがい知れる。

図26 日清戦争における日本軍進路略図