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日露戦争と村民

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 日清戦争後、日本は韓国における独占的な支配権をうちたてようとし、一方ロシアは満州確保のため韓国への進出の動きを表面化してきた。そのため日本は、明治三六年からロシアと朝鮮・満州問題で交渉を進めてきたが、明治三七年(一九〇四)に入りロシア側の回答は韓国領内の日本の軍事施設をいっさい認めず、満州における日本と清との条約上の権利は認めるが、居留地は認めないというものであった。この回答に接し我が国は開戦の決意を固めた。
 ロシアはしだいに満州への兵力増強に努め、海軍の艦隊を旅順に結集させ、陸軍も遼陽、旅順を中心に兵力を集中させていった。我が国は二月四日の御前会議で軍事行動に入ることを決定し、翌五日には動員令が下され、八日には陸軍は仁川に上陸、旅順口ではロシア艦隊に先制攻撃を加えたあと二月一日正式に宣戦を布告した。
 第一軍主力は鎮南浦に上陸、北上して五月一日には鴨緑江をわたりロシア軍と戦闘を交えた。第二軍は塩大澳附近から上陸し、南山、得利寺、大石橋と遼東半島を南部から北進した。また新たに一、二軍の中間、大孤山に独立第一〇師団が上陸し柝木城を陥し、三方面から遼陽攻撃の体制を整え、九月に入り約一週間で陥落させた。
 北高根沢村の肥後富吉は、はじめ補充兵として入隊、明治三七年五月下旬に大本営付、七月一日に満州軍総指令部付となり、同月一〇日には宇品より安芸丸で出帆、一四日にダルニウに上陸、八月一日に蓋平、二四日に大石橋に、さらに海城から九月七日に遼陽につき、奉天攻撃を前にして煙台に着いていた。この時期、一方では旅順攻撃が開始され、この戦闘も翌三八年一月二日に中止され、一五五日間の旅順攻防戦は終結をみた。戦闘は奉天の会戦へ移り、三月一日を期して総攻撃を開始し、三月一〇日奉天の戦は終了した。日本軍の死傷者七万余名に対し、ロシア軍は九万余名、捕虜二万余名という打撃を与えた。
 ここに北高根沢村奨兵義会長宛に戦死報告と葬儀についての通知がある。一連の通知をみると次のとおりである。
 
  坂本長三郎(桑窪)、明治三七年八月二一日、水師営南方高地で戦死、―旅順攻撃開始後間もない時期―
  村上謙吉(花岡)、明治三七年一二月一日、旅順西北、二〇三高地の戦闘で戦死、―二〇三高地占領の数日前
  小林末吉(上高根沢)、明治三八年三月九日、田義屯附近で負傷、一一日死亡―奉天会戦で、奉天北部の地
  石川與右衛門(桑窪)、明治三八年三月九日、田義屯附近で戦死―奉天会戦で奉天北部の地
  斉藤筆吉(桑窪)、明治三八年三月五日、揚士屯附近で戦死―奉天会戦で奉天南方の地
  岩本菊蔵(上高根沢)、明治三八年三月九日、奉天附近で負傷、五月一日死亡―奉天会戦での死亡
  渡辺万吉(栗ヶ島)、明治三八年九月一五日、盛京省東菓子園舎営病院で死亡―奉天会戦で負傷後死亡
  小堀捨次郎(上高根沢)、明治三八年九月一〇日、三家子舎営病院で死亡―奉天会戦で負傷後死亡
  加藤秀堂(平田)、明治三八年八月二六日、奉天兵站病院で死亡―奉天会戦で負傷後死亡
 
 北高根沢村で知り得る戦死者は九名であるが、うち二名が旅順攻防戦で戦死、残り七名は奉天攻防戦での戦死者である。奉天会戦は、日本軍二五万、ロシア軍三二万の兵力を集中し一〇日間激闘が続いた。日本軍の死傷者七万人、対するロシア側は約九万名、捕虜が二万余名の損害を出した。奉天の会戦がいかに激戦であったか、北高根沢村民にとって多くの犠牲者を出した戦いであった。

図29 日露戦争での無事を祈る絵馬(飯室 星宮神社蔵)


図30 日露戦争における日本軍進路略図