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戦争と農民

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 この日露戦争に当時の農民たちはどのように立ち向かっていたのだろうか。そのとらえ方はさまざまであろうが、ここに北高根沢村花岡の岡本右家に残る日誌(明治三七年)より戦争と関係ある動きをとらえることにする。
 宣戦を布告した二月一日以降、戦争とかかわる記事は一週間後の七日になって現われてくる。
 
  七日 晴風、日、本日午前氏家ヘ米売りニ行キ午後学校ヘ、戦時ノ出兵者ニ対スル送別会スルヤ否ヤ協議員会ニ行キ午后六時帰ル、
  八日 晴霞、月、本日午前組内ヲ廻ル、但シ消防火ノ見梯子新築寄付金、及ビ軍人出発ニ対スル餞別等徴集ノ為ナリ、午后石末ノ笹原、□岸鶴吉ヘ収金催促ニ行ク、内金五円受取、午后五時三十九分帰ル
  上高根沢ノ阿久津為五郎兄出兵スルニ付、沙汰ニ来ル
  十日 晴、水、本日宝積寺停車場迄出兵者送リニ行キ氏家市ヘ廻リ、午后六時五十分帰ル
 
 どの程度戦争への関心があったのか、農村には直接影響はみられず、翌日一一日は紀元節であるに拘らず、単に「本日学校へ紀元節祝賀会ニ行キ」と記した程度である。記事は直接関係のある住民の出兵のことのみである。特に出征兵士に対して「送別会スルヤ否ヤ」といった行為は戦争への積極性を余りうかがい知ることができない。出征兵士への送別会について三月七日にも同じ内容の相談がみられたが、当日午後送別会を開くことに決定した。九日にはさっそく赤羽喜三郎、鈴木康多、村越信太郎、小池勇松、高橋留次郎の五名の送別会を学校で行った。彼らは一〇日、一一日に宝積寺駅から出征していった。
 この一時期は出征兵士の動きがみられたが、その後はしばしの間みられなかった。戦争関係では三月三〇日に区長鈴木栄次郎が北高根沢村軍人保護会の寄付金募集にみえた。四月三日には下坪区長村上菊三郎が北高根沢軍人家族保安義捐金募集にみえ一〇円を渡している。毎日の日記の内容は戦争下の状況とは思えないくらいで、専ら短冊苗代つくり、たばこの苗床作りのことが多く書かれている。四月に入ると軍馬徴発のことが連日のように書かれている。一七日に役場より軍馬徴発伝令書が渡された。
 
  四月一八日、岡本東一郎父角平、軍馬徴発の件に付相談に来る。
  二三日、岡本角平馬匹徴発さるるにより、明日宇都宮体格検査場へ行くに付打合せに来る。本日宇都宮へ軍馬匹徴発に行きたり泊る。
  二五日、今朝柿木沢久保滝三の若衆宇都宮へ馬匹検査に行き居る事、拙宅にても行きたるにより様子伺ひに立寄りたり
  五月二日、役場へ軍馬徴発せられたるにより、其代金下賜の旨通知有、
  五月二四日、明日星宮神社で馬匹健康診断の令が来、翌日星宮神社へ行く、
 
 四月から五月にかけては軍馬徴発のための馬匹検査の記事が多くみられ、軍馬の徴発が活発にみられた。この間、出征兵士は、菅又保平一人である。六月以降、戦争関係の記事はみられず、日誌は専ら田植、たばこの虫捕りが連日書かれている。八月もたばこ関係が多かったが八月二七日に久しぶりに軍事関係の記事がみられた。「陸軍より戦争の件に付、大麦及び大縄徴発せられたるにより出高配当の集りに行く」と。八月三一日には清水茂七の送別会が学校で行われ、翌日出征した。
 戦争の内容が具体的に現れたのは九月二日である。「今夜午后八時二一分、氏家大津新聞屋より日露戦争の遼陽占領したる号外を配付に来る」と、戦闘の状況がはじめて日誌にしるされた。次いで一二日付には「茨城の書籍屋盛文社社員日露戦史予約発行注文取りに来る、依頼す、一〇銭手附渡す」と、日露戦争への関心が高くなってきたことがわかる。遼陽会戦は以後の戦況を左右する最初の重要な戦であった。八月二八日より一進一退をくりかえす激戦に一つのメドがついたのが九月一日でロシア軍が後退をはじめた。日本軍も戦死者五、五〇〇余名、戦傷者一万八〇〇〇名に達する損害をうけたことから、この勝利号外は国民に大きな喜びと安堵感を与えた。
 しかし出征兵士が病気で満州の戦地より大阪に護送された通知は、戦争の現実を村民に知らせるものだった。日露戦争の最初の戦死者は平田の田代平吉で一二月二六日葬式が行われた。この間、一一月三日天皇誕生日には学校で天長節の拝賀式が行われ、国民に天皇陛下より詔勅が下され、その奉戴式が行われている。戦争の最中にも、農民の生活は銃後を守るための稲こき、たばこ束ね、小麦蒔きといった日々が続いた。久しくみられなかった出征兵士の送別会は一一月二六日石塚信一郎、亀田林弥について行われ、翌日宝積寺駅から送っている。一二月に入って一二日に斉藤房吉、直井寅二郎、直井幸七らは相次いで出征していった。

図31 明治28年岡本氏の日誌(花岡 岡本右家蔵)


図32 日誌の著者で篤農家の岡本剛一郎(花岡 岡本右提供)